コンビニエンス (Nov 2004)
*18歳未満お断り





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 ぬるい湯船につかっていると、まるで羊水の中をあてもなく漂っているように自分の境い目があいまいになる。中と外とが境界もなくまじりあい、自分をへだてているすべてのものから開放される心地よさ。耳の中のぬるま湯は音でさえ遮断する。虫の音。ざらざらとしたあの羽音。あらゆる雑音ですら、そこでは静まった湖面のように音を消す。それはあのころ持っていた、あの左手につながっているのだ。やわらかくて細い手。いつでも丸く手入れされたすべすべの爪と、ジャスミンのハンドクリームの甘い香り。かれはぬるい湯にひたってそれらをもういちどつかもうと手繰りよせる。なんども・・・。白と黒。赤と緑。渦をまいたマーブル。かれは息を止めたままそのなかに倒れこんだ。同化しかけた身体はとたんに固体へと変質する。
――がしゃがしゃがしゃ、ジャボン。無駄に長い足が、浴槽のへりにならんでいた空のビンと缶をボーリングピンよろしくなぎ倒した。目を開いたかれは、歪みながら原型をとどめるピンク色の殻を見る。

“マーブルのままだわ、ラビ。どこまでいっても、わたしたち、この世界に溶けこめない”





PART 1

「・・・・ハロウ? もしもし、アレンです。ええ、元気ですよ。声でわからない?・・・・いやだな、そんなこと言わないでよアニタ。・・・ソーリィ、アニタさん。そちらはどうですか? お店は・・・きくまでもないか。ええ、僕の方はなんとも。あいかわらずかれとはうまくいってますよ、自分でもおどろいてるけど。・・・だって、ねえ、この前なんか、・・・ああ、すいません。そんなつもりじゃ。・・・え、・・・あぁ、いえ、いいですけどね。勝手に誘ったりしないでくださいよ。・・・ちがいますって、かれは一応バイです。自分ではそういってる」
 アレンは携帯電話を耳に押し付けながら、もう片方の手で冷蔵庫のドアをひらいた。腰までの高さの冷蔵庫は、開けても電気がつかないし冷凍庫のついていないワンドアタイプだ。薄い布地のカーテンから透けた光で、中のものを判別する。大部分を占めているのはガラス瓶で、赤と緑とあめ色、透明。どこの原産だかわからないフルーツビールが持ち主の好みだった。それから、ビン入りのクリームチーズとピクルスに、かじりかけのフランスパン。いつでも湿気ているので、フライパンであたためる。
 かれはうなり声をあげるボックスのドアをひらいたまま、耳に携帯をおしつけてゆるく笑った。「ほんとうだよ、アニタさん。僕、最近はひと箱減らしているんだ。体重だってこのまえより2キロも、・・・・・わかりましたよ、正直にいうと体重はふえてない。でも減ってもいないから」
 電話のむこうから聞こえる声は、一晩つづいた仕事のあとですこしだけかすれていた。夜のナース勤めをおえた彼女との電話は週に2、3回というペースに減っていたが、恋人ができてからもかわらずにつづいている。
 アレンは冷蔵庫から何本かビンを取り出して、中身を確かめようと薄い陽にかざした。なんの意図かは知らないが、ラベルは持ち主によってすべてはがされている。ビンには刻印もなく、ふたは黒いマジックペンでぬりつぶされていた。本当はペリエとミネラルウォーター意外はほとんど区別などつかないのだが、かれはいま麦の辛口が飲みたい気分だった。そうしながら、絶え間なくつづく甘い声に相槌をうっている。「ねえ、そんなに心配しないで、」 彼女の言いたいことはいつだって同じだった。何度もくりかえして、もう身体に彼女の色の染みができそうだ。
 バタンと音をさせて、アレンは冷蔵庫のドアをつきはなした。2本選んで出したビンは、けっきょく中身が何なのかわからない。かれは自分でも気がつかないうちにため息をこぼしていた。
「・・・ねえ、アニタ。僕のママってわけじゃないだろ?」
 ちょうどそのとき、浴室のほうから水音にまじって、がしゃがしゃと盛大にビンをぶちまける音がした。かれの乱暴な言い方に何かを言いかけた友人が、その音を聞きつけて『どうかした?』 と高い声で聞きかえす。
「なんでもないよ、ただ・・・、ああごめん。ちょっともう切らなくちゃ」 アレンはビンの口を片手につかむと、キッチンのすぐうしろにあるバスルームをふりかえった。
「・・・ただビンをわっただけだよ、よくあることだから。・・・ごめんなさい、さっきのことは忘れて。いえ、僕が悪いんです。あなたのせいじゃ、・・・・ありがとう。それじゃあ、もう・・・ごめん、アニタ、愛してる。・・・いい夢を・・バイ」
 アレンはそう言ってあわただしく電話を切ると、浴室のドアノブに手をかけ、途中で立ち止まった。握ったままの携帯電話を少しのあいだみつめ、HLDボタンをつよく押す。エンドクレジットはくるくると舞うひかりの動画で、ほんの数秒間流れ、やがて画面が暗くなった。かれはそれを確認し、ぱきりと電話を折りたたんで床の上に投げすてる。回転しながら床をすべる携帯はやがてトランクスの山に衝突し、そろえてあった色をぐちゃぐちゃにくずして、その下に埋もれた。




PART 2
コンビニエンス・シリーズ