落下する日常




 ビルを1階から10階までを階段であがるのに、10日間もかかってしまった。いつもはワンフロアーに3時間しかかけないのに、なんだってこんなにのんびりしてしまったのだろう。でもこのビルはいまは誰も住んでいない廃墟ビルだし、仕事には二週間の猶予をもらっているから別段気にすることでもないのだ。早ければいいような仕事でもない。だからといって手を抜いても、さほど目立つことがないのがこの仕事のいいところだった。
 10階まで来るのにこんなに手間取っていた理由は、ワンフロアー3時間のペースで床掃除をしていたオレのまえに、死にそうなプレーリードックが横たわっていたからだった。信じられない話だけど、それはこのビルの3階で本当にあった話だ。オレはほこりで色が薄くなっているライムグリーンのタイルに、砂色をした長ほそいものが横たわっているのを見た。プレーリードックは餓えて死にそうだった。どうやってここまでのぼったのかもわからなかった。このビルは小さいくせにやたらと用心深くて、非常階段の扉はネズミだって通れない空気穴しかない。換気扇もそうだ。コガネムシくらいしか通れないし、通ってきてもべつにいいことなんかない。それを知っているからか、ここまでオレが拾った虫はせいぜいハエくらいなものだった。
 プレーリードックはほとんど死んでいた。うごかなかったし、水を与えても飲まなかった。ほとんど寝ているように、もう死んだも同然だった。オレもはじめは死んだと思っていたので、指でつまみあげようとした。さわったら身体がまだ温かかったので、死んだばかりなのだろうと思った。しかし、動物はなかなか冷たくならなかった。
 時刻はちょうど昼時で、オレはプレーリードックの目のまえでサンドイッチを食った。料理上手の同居人が毎朝テーブルに置いていってくれる。その日はウインナーとトマトとレタスだった。レタスのはしについた黄色いものをマスタードだと思ってかぶりついたら、カラシだった。オレはぼろぼろ涙を流しながら、プレーリードックにレタスをつきつけた。ヤツは食べなかった。食べなくて懸命だった。
 そのプレーリードックを助けるか否か、オレはそいつが死ぬまで迷っていた。こちらを見るとか指を動かすとか、テレパシーを送ってくるとかしたら、すぐにでも動物病院へつれて行ってやろうと思った。細かな変化でも気づいてやろうと思った。どんなに苦しいのか知らないが、苦しいというそぶりをすこしでも見せたらほうってはおかないつもりだった。
 それでもだからと言って、オレの一存でこの動物を救ってやることはできないと思った。どんな生きものだって命の長さを決められるのは自分自身だ。このまえ8階のビルの屋上から飛び下りた女を、路上の若者が受け止めようとした。位置はドンピシャだったけど、重力にたえきれずに、どちらも重症の怪我を負った。どちらも命に別状はなかったが、女は半身不随になった。若者は英雄だった。かれが英雄かどうか決められるのは彼女だけだ。彼女はテレビでかれのことの罵った。でもそれはテレビには映らない。オレはたまたま、彼女の病室を掃除していたのだ。彼女は彼女のことを見つめる報道陣とオレをにらんだ。国民のすべてが、もはや彼女の敵だった。
 プレーリードックはけっきょく3日間動かなかった。そして4日目にオレを見た。それでオレはそいつに買ってきたミルクをやった。プレーリードックは生き返って、その3時間後に死んだ。オレはプレーリードックをゴミ袋につめ、長ほそい動物がもはやいなくなった床のうえで、昼飯のサンドイッチを食った。ピーナツバターと蜂蜜のサンドイッチだ。オレの大好物だった。

 オレは掃除を再開した。そして、急ピッチで進めた10日目に、9と4分の3階くらいの階段で、魔法使いの弟子を見つけた。そいつはがりがりにやせ細って、だが少しも空腹を感じさせない目をオレに向けた。
「ずいぶん長くかかったんだね」
そいつは言った。老人のように白い髪で、しかも左目から頬にかけて大きな傷をつくっていた。それこそが、オレがそいつを魔法使いの弟子だと考えた要因だ。
「途中で死にそうなプレーリードックを見ていたから」
オレは正直に答えて言った。
「プレーリードックは死んだの?」
「死んだよ」
「殺したの?」
「わからない。助けるのがもう少し早ければ助かったのかもしれないけれど、手をさしのべるタイミングは、かれの意志だったから」
「かれの、」
「そう、プレーリードックの」
 その男はせいぜい18、9歳かそこらに見えたが、傷ついた目はかれがあと5歳は上であることを物語っていた。あるいはあと100歳上なのだと言われても、オレには反論する気がなかった。春先でまだ寒いのに、ジーンズにTシャツだった。白いTシャツには日本語でDEATHを意味する単語が書かれていた。それがわかったのは、大昔にオレが授業の第二外国語で日本語を選択していたからだ。同居人が半分ジャパニーズなのは関係ない。なぜならあいつはバイリンガルである自分が嫌いなので、よほどのことがないかぎり日本語を口にしないからだ。その理由はオレにはよくわからない。
「あんたは日本人?」
 オレは日本語で聞いた。
「そう見えるの?」
 そいつは日本語であきれたようにそう返した。そのあとはずっとイギリス英語だった。さっきまでこの国の言葉で話していたのに、コックニーで話すとそれが母語なのだという気がした。あるいはオレのように、どこにも自分の言葉が存在しないのかもしれない。オレの出生は中欧のどこかの国で、その言葉を習得する前に香港に渡った。香港ではアメリカ英語を教えられたが、NYに移り住むと、その言葉はアメリカンイングリッシュなんかではなかったのだと知った。でもNYに住んでいる当のアメリカンたちは、自分以外の誰もが間違った英語を話していると思っている。オレは結局、言葉を習得し損ねた。
「あんたはここの住人?」
 今度は英語で聞いてみた。だからオレの英語は、どこか中途半端で無国籍だ。しかしこれこそがオレの母語と呼べる唯一だから、オレはいつでもたった一人しかいない小さな国の第一国民だった。
「そう・・・いや、ちがう」
 男は何色とも判別がつかない薄い瞳でオレを覗き、「ちがう」と今度ははっきりと言った。
「いまさっきここに来た」
「そうは見えないさ。第一、どこから入ったんだ」
「内側から」
「このビルには秘密結社の集会場でもあるのか?」
「あはは」
 たいして面白くなさそうな顔でそいつは笑った。オレは小さく肩をすくめ、もう関わりは持たずに自分の仕事に専念しようと落としたモップを拾い上げた。オレが前ぶれもなく掃除を再開しても、男は気にしない様子だった。かといって動く気配もなく、がりがりにやせたままの姿で階段に居座っているのだった。
「なあ、あんた」
 9と4分の3階の弟子をもうずいぶん過ぎたところで、オレはそいつをふりかえった。呼ぶと白い頭は億劫そうにふりかえり、一応は聞いているよという顔をしてから元へ戻った。
「ずいぶん長くかかったって、そう言ったっけ?」
「言った」
 だからなんだ、というような返事だった。オレはそれ以上聞く気をなくして、掃除に戻った。弟子はそれ以上なにも言わなかった。多分魔法使いだから、いろいろ心の内を量れるにちがいない。だから以前からの知り合いのように、あんな言葉をかけたに違いないのだった。オレはかれをそこに残したまま上へ上へとあがってゆき、ついには3時間後に10階の屋上にたどり着いた。

 屋上に残されていたダストボックスにゴミ袋をどさりと落とす。ライムグリーンの金網制。このビルのオーナーは、ライムが好物だったんだろう。オレはふと思いついたことがあって、1階から10階まで、さほどたまることのなかったゴミ袋の口をひらいた。
 砂色の物質。もはや生き物ではなくなった砂色の物質を求めてオレは手をのばした。手の先に触れた感触は、しかしかつての動物とは似ても似つかない。砂色の、長ほそい、豪奢なイスの脚になりかわっていた。あるいはそれは、かつての動物でもなんでもなく、オレが気づかないうちに拾った壊れたイスの欠片なのかもしれない。動物はもっとよく探せば、奥のほうに見つかったのかもしれない。また、生き返って穴から抜け出たとも考えられる。
 しかし、オレはその脚を見つけたことに満足した。
 日本語の教材を読んでいたときに、くりかえし勉強させられた小説がある。極悪の泥棒が、一生に一度だけ生き物を助けたのだ。助けられた生き物はそのことを覚えていて、泥棒が死んだあと、地獄から救おうとする。泥棒はしかし、悪人だったのでその善意にこたえることができなかった。泥棒は中途で地獄に逆戻り。
「ねえ、」
後ろから声がかかったので、オレはふりかえった。そこには人間が立っていた。さっきのやつだ。オレはイスの脚をゴミ箱に戻して、そいつを見た。相変わらず、どうでもよさそうな表情だった。
「プレーリードック」
オレは呼んだ。相手は何も言わなかったが、オレは気にせず先をつづけた。
「あんたはオレの天使なの? それとも死神?」
 プレーリードックは答えた。
「実は僕も、ずっとそれを考えている」
 空は午後から冴え冴えと晴れていたが、オレたちはその下で所在なげに黙り込んだ。




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07/03/29