23番地の真実 (暗い話が苦手な方、猫好きの方はご注意ください)




 アレンが消えた。
 本当だ。その朝オレが目覚めたとき、ベットの上のかれのいた場所はひんやりとしていて、まるでとけて消えたみたいに跡形もなかったのだ。オレはその空白の部分を、ずいぶん長い間見つめていた。そうしていれば、数回の瞬きのあいだにかれの姿がもどってくるのではないかと期待して。ちょうど朝の光がそこを照らして、目にちかちかとまぶしかった。オレは自分が寝ぼけていればいいと思っていた。いまオレにだけ見えないその場所に、アレンはいるのだと思いたかった。
 けれど、オレはけっきょく長くて重いため息をひとつ吐き、のろのろと身体をおこした。とけて消えたのじゃないことは、起きたときにわかっていたからだ。そして、もしとけて消えたのだったらどんなにかいいだろうと考えた。ふたりで選んだこのベットの上で、オレのとなりで、オレと手をつないだまま消えたのだったらよかった。そうしたらオレには少なくともかれのいる場所がわかるし、かれの消えたベットの上で、毎晩かれを思い出すこともできるのだ。(それにそのうちオレもベットといっしょになって消えるかもしれないじゃないか)
 そこまで考えて、オレはかるく頭をふった。なんてバカげた考えだ、どうかしてる。でも、オレは自分のひざを見ながら長いことを動くことができなかった。どんなに考えまいとしても、アレンのやわらかい気配や、笑い声や、袖をひっぱってくる手のことを忘れることができなかった。
 アレン、アレン。
 でもどんなに隣をふりかえっても、かれはもう見つからないのだということも痛いほど感じていた。もう、かれは二度とそこにはいないのだ。
 とけたのでも蒸発したのでもなく、アレンはここを出て行ったのだと、オレはついに認めなければならなかった。オレはかれに置いていかれた。そのことをたしかめるために、オレはゆるゆると動き出してブラインドを薄くあけた。すじになったひかりの中でも、取り残されたものは何も言いはしなかった。(オレを含め)
 静かに照らされた白いシーツと、いつもかれがつかっていた端のほうがへこんだ枕。ナイトテーブルの代わりにしていたダンボールには、山ほど積みあがったラテン語教材がそのままのかたちで置き捨てられていた。変わったことは何もない。それなのに、そこにもはやアレン・ウォーカーと呼べるなにも存在していなかった。教材のとなりには、アレンが毎晩かかさずに読んでいた聖書がいつもと変わらずそこにあった。まわりの布がもうぼろぼろで、側面は日に焼けて茶色くなっていたそれを、クリスチャンじゃないあいつはそれでもかたときも離すことがなかった。たった一つの理由から。
 オレはそれを手にとって、恐る恐る中をひらいた。1ページ、2ページ、3ページ目からあとは、パラパラと流していった。最後のページ。そしてかたい装丁の裏に、インクでふたつのイニシャルが書かれていた。上がM・W、その下にA・W。最後の希望を探すみたいに、何度もなんどもその聖書をめくりなおした。11回目は背の部分を持ってパタパタをふってさえみた。でも、どこにもなかった。かれが自分の持ち物の中でなによりも大切にしていた写真は、それだけが抜き取られていた。かれは、かれにとっていちばん価値のあるたった一つを持って出て行ったのだ。疑う余地など、もうどこにもなかった。



 あの夜アルバイトから帰ってきたアレンは、雨なのにまた傘もささないで、おまけにオレが貸してやったはずのパーカーも脱いでびしょびしょのまま玄関のドアを開けた。「アレン!」とオレが驚いて声をあげると、かれはぺったりと頭にはりついた髪の毛からしずくをたらしたまま、「・・ただいま」と申しわけなさそうに言った。そして、オレがあわててバスルームからかわいたタオルを持ってもどってくると、玄関マットの上にぬれたまま座り込んで、しっかり抱きかかえていた黒いかたまり(というか、オレのパーカー) を、はぎ取って、中にあったものを取り出した。
「・・ごめんなさい、ラビ」
 オレがあまりに長いことそいつを見つめていたので、アレンはとうとう肩をすくめてオレに言った。そして、言いわけのように目をそらしてぼそぼそとつづけた。「雨だったんだよ。すごい雨で、歩道が川みたいで、植え込みの下が沼みたいで、段ボール箱が船みたいにぷかぷか浮かんでたんだ。それで、箱のふたが開いてて、それが・・」
 アレンがそんなふうに、いたずらを見つかってしまった子供のように早口にしゃべるので、オレは思わず吹き出して、ぬれたままのかれの頭をぎゅっと抱いた。それでアレンがあわてたように、「あ、まって、つぶさないで、」とオレのからだを押し返すと、かれのうでの間から抗議をするように細い声で子猫が鳴いた。
「あ、」
 かれが声をこぼして、白い子猫はすばしっこくオレたちの間からすりぬけた。白いといってもそのときは泥だらけでぬれぼそり、くしゃりとまるめた雑巾みたいな姿だったが、まるで気品のある猫のように、すたすたとカーペットの上を歩いていった。まっ黒いあしあとををのこして。それを見てオレが「あぁ・・」となさけない声を出したので(つぎの掃除当番はオレだったからだ)、まだ抱いたままだったアレンが腕の中からおかしそうにくすくす笑った。「こら、」 アレンがぴたりと笑い声を引っ込めた。
「とりあえず、おまえらさっさと風呂に入りなさい。で、服とパーカーはランドリーに放っておいて」
わかった? とたずねると、かれは笑って肩をすくめた。

 バスタブの中で、アレンの手で落ちないようにしっかりと抱えられた子猫は、泥を流すとおどろくほどきれいな毛並みの白猫になった。オレはそれをタオルを抱えた両手で慎重に受け取り、爪を立てながら抗議するのをアレンに笑われながらふいていた。その子猫ときたら、風呂の中でアレンに洗われていたときには声ひとつあげなかったくせに、オレがどんなに押さえつけてもタオルの間からすり抜けようともがくのだ。やっと水気をふき取って開放すると、ぶるりと大きくからだをふるわせた。
「・・・なーんか、むかつくさ、こいつ」
 にゃああ、と反論のように鳴かれて、アレンがバスタブの中でぶくぶく笑った。顔をあげると、かれはうでだけ外に出して、子猫をちょいちょいと指先でさそった。その指先を、もどってきた猫がぺろぺろとなめている。オレはそれをちょっとだけうらやましく思いながら、(でも猫に抗議するのもどうかと思ったので)、かれの髪の毛をちょっと引っぱってから訊いた。「・・で、決めた?」 かれが不思議そうに首をかしげるので、もう一度。「なまえ」
 とたんにかれは驚いたように目を丸めて、それからひどく優しい表情で言った。
「ティムキャンピー」
 そして、むかし買ってもらったぬいぐるみにそう名付けたのだと、はずかしそうにオレに話した。
「そのぬいぐるみがどこに行ってしまったのか、僕には思い出せないけれど」



 アレンがオレに見せた笑顔を、大きいのもちいさいのも、オレはぜんぶ覚えてて、大事にひとつもなくさないようにしまっている。必要になったらすぐに取り出すことができるように。
 でも、いまこの部屋にたったひとりで立って、空っぽの聖書をぶら下げているオレは、どうしてもかれの顔を傷みなしには思い出すことができないのだ。
 知らないうちに奥歯を強く噛んでいた。叫びだしたいのは傷みからで、それは哀しみの感情にちがいないのに、いまこうしてオレがにぎった左手を震わせているのは突き上げてくるような憤ろしさだった。
 考えるまもなく右手をふりあげ、握っていた聖書を、壁に向かって思いきりたたきつけた。
 古い聖書はやわらかな色の壁にあたり、にぶい音をたてて床に落ちた。もう糸もほつれているのに、聖書はもとからあった傷にひとつ新しい傷をくわえただけだった。

 アレンが消えた。
 オレはぎゅっと手のひらに爪を食い込ませ、だれにともなく悪態をついた。そうして噛みしめた奥歯がふるえ、泣きたいのだと思うまでには、ずいぶんと長い時間がかかった。



 半年前の雨の日に拾ってきた子猫が、2週間前からすがたを消していた。
 ティムキャンピーが出て行ったままとうとう戻ってこなかった夜、オレたちは大通りで車にひかれた子猫の話を聞いた。すごい雨で、コンクリートのくぼみが川みたいになっている夜だった。かれがうちにやってきたときと、ちょうどおなじように植え込みに水がたまっていた。いつもなら、ティムはリビングのソファかオレたちのベットでまるくなっているのに、その日はどこをさがしても見つからなかった。そのあと、傘を持って近所をまわってきたアレンが、青い顔をして玄関の戸をあけた。
「ラビ、」
 かれは泥だらけの靴を履いて、傘も手に持ったままリビングまでやってきて少しはなれたところからオレを呼んだ。オレは驚いてかれのところへ走っていった。どこもぬれていないのに、びしょぬれのときよりひどい顔をしていた。「大通りで、」と、かれは言ったきり、口をつぐんだ。つづきは言われなくてもわかっていた。
「ティムなのか?」
「・・・・わからない。でも、白猫が大通りで、車に・・・・ミランダさんが」
「ミランダの話だったら、あてにならないさ。だいじょぶだって・・・・」
 オレはそういったけれど、あたまのなかでは嫌な確信がぐるぐると渦のようにまわっていた。アレンを安心させるようにわらったつもりだったのに、口のはしが引きつっているのが自分でもわかった。オレの勘はよく当たるのだ。とくに、こんな悪い予感ばかり。
 オレはアレンを部屋に残したまま、傘をさして大通りへ向かった。雨は夜に向けてますますひどく、黒いアスファルトのはね返りで膝から下がぐっしょりぬれた。雨の道を車が轟音をたててとおりすぎる。それが近づくごとに、脳裏ではぺしゃんこになった血と泥まみれの白い残骸が、幻影よりももっと濃い色あいでオレの頭の中に浮かんでいた。

 半時間後、部屋にもどったオレは、ソファに膝を抱えてうずくまるアレンの背中をぽんぽんとなでた。「いなかったよ、やっぱり間違いだったんさ」
 オレのあからさまな慰めのことばに、アレンはゆっくりと顔をあげた。「・・・そう、よかった」
「明日になったらもどってくるよ」
「うん、」
「雨がやんだら」
 蒼ざめた頬が少しだけうごいて、笑いそこねた顔が苦しそうにゆがんだ。濡れたような瞳は、しかし涙をながすことはなく、かれは不自然にでも笑顔を取り戻そうと試みていた。痛みを体現するのは涙ではないのだと、オレはそのとき感じていた。
「明日も戻ってこなかったら、またふたりで探しに行こう」
「うん」
「それでもダメだったら、貼り紙をつくろう」
「うん」
 話していないと、どこか深い穴にでも落ちていってしまいそうなアレンに、オレは架空の未来を延々と語り続けた。見つからなかったら、見つかったら、もし自分から戻ってきたら。子猫のことについて話すそれらは、そのままオレたちの未来を仮定していた。しかし、そんな仮想空間では決められることなど何もない。その場所には何の力もないし、その言葉はけっきょく何も表すことができなかった。



 そして2週間。子猫は戻らなかった。戻らないだろう思えるじゅうぶんな時間をこの部屋ですごし、アレンは唐突に出て行った。オレが夜半過ぎに眠ってから数時間しか違わなかった。取り残された古びたバイブルを壁にたたきつけ、しばらくの間オレはやりきれなさに目を閉じていた。
 喪失感よりも怒りの方がまさっていた。悲しみはもっとあとから来るのだろうか。けれどオレはそれを確かめるまえに動かなければならなかった。もっと何もかもが手につかなくなる前に(そうなってしまう自覚があったのだ)。
 オレは絨毯を爪で引っかいて立ち上がり、きのうの夜そのへんに置いたはずの携帯電話を探しはじめた。枕もとに置いたと思ったのに見つからず、サイドテーブルはさっきオレがぐちゃぐちゃになるまで確かめたあとだった。(あいつの残した本の山など見たくもない)
 ベットの下、脱ぎ散らかしたデニムのポケット、Tシャツ、ソファ。しまいにはキッチンにまで足を伸ばし、結局それを飲みかけのマグカップのそばで探し当てた。
 ぬるくなったコーヒーをあおるように飲みほして、ダイアルを押した。その番号を押すのはずいぶん久しぶりだったのに、躊躇はひとかけらもなかった。電話の向こうで相手を呼び出すと、自分の出している声だって、あのころのような余裕さえ見せていた。
 余裕だって? オレは内心苦笑する。そんなものは、いつだってどこだってありはしなかったくせに。
「ああ、リーバー? オレだよ、久しぶり。リー教授を出してくれ、緊急なんだ。・・・そいつはよかったな、おめでとう。でも悪いけど今夜は無理そうだよ。ああ、また」
 同僚の昇格を、どうでもいいと思いながら祝っている自分がおかしかった。この男とトップをあらそっていたときの自尊心は、跡形もなく消え去っていた。
「・・・・先生? ええ、すいません、会議中に。はい、かれのことで。・・・・よくおわかりですね。・・・いいえ、そんなことは。素直な意見ですよ」
 連絡をとった教授は、いつものように硬質な声で笑ってオレの失敗をすぐに見抜いた。
「その通りです、かれが。・・・申し訳ありません。至急、捜索願いを。いなくなったのは午前5時から7時の間だから、範囲は国内でかまいません。リナリーはそこに? 彼女はかれと顔見知りなんです。ええ、頼みます。そのほうがつかまりやすいと。・・・・え? あ、はい」
 相手が変わる。名前を呼ばれ、開口一番に罵られた。
「・・・・・・リナ、」
 けれど、オレはいま彼女にしか頼ることができない。
「頼むよ、捜索チームに入ってくれ。小言なんかいくらでも聞くよ。何発でも殴られてやる。この先・・・・、この先、オレはあいつに会わせてもらえる保障がないんだ。だから、おまえがあいつを見つけてやって」
『ラビ、あの子・・・・』
「リナリー。あいつ、猫を殺したんだ。研究室に連れてこられる前みたいに。この一年、まったくそんな兆候はなかった。暮らし始めたときみたいに、物を壊すこともなくなってたんだ。なにもかもうまくいってた。そうだろ? おまえだってあいつの変わりようを見ただろう? あいつは・・・・あと半年で更正期間が終わるはずだったんだ。そうしたら、この監視された23番地から出ることができる。なんでだ? オレにはわかんねえよ。なんでこんなことになった? なにが間違ってたってんだ?」
 電話の向こうで、オレの友人であり同じチームの同僚でもあるリナリー・リーは、ただ黙って話を聞くばかりだった。その彼女に、オレは答えのわかっている問いをくりかえしつづけた。彼女には答えられるわけがない問いかけを。
 オレは声が割れるまで彼女にむかってわめき続け、彼女は最後に、「なんてバカな男なの」とつぶやいて電話を切った。オレは壁に背をあずけたままずるずると座り込み、顔に手を当てて、いつの間にか泣いていた事に気がついた。



 あの夜、子猫を追い出したのが他ならぬアレンであることはこの部屋を出たときからなんとなく気づいていた。その不安定さも、蒼ざめた表情も、なにひとつ的を射ていない言動も、更正施設で出会ったばかりのころのかれの姿と寸分の違いもなかった。
 アレン・ウォーカーが極度のストレスを感じたときに示す行動パターンは、愛情を注いだモノや人を無意識に傷つけること。その障害により生じた事件をオレは知りすぎるほどに知っていたし、その更正プログラムに対する論文と実践こそが、オレの存在理由だった。
 わかってる。バカなのはオレだ。あいつを大事にしすぎたのも、あいつにバカな感情を抱かせたのもオレなのだ。あいつは、研究対象である自分とオレの関係をよくわかっていた。いつだってオレから無断で離れようとしなかったし、それをしたら今度こそ拘束される可能性があることを理解していた。
「傷つければよかったんだ。猫なんかじゃなくて・・・―――、」
 オレはあの夜、死んだ猫を見つけていた。大通りではなく、23番地の庭で。オレはその猫を空き箱にいれ、土を掘ってかれの大事にしていた花壇の横に埋めた。そして何食わぬ顔で部屋にもどり、アレンに子猫は見つからなかったと告げたのだ。
「どうしてオレを殺さなかったんだ、アレン」


 義父であるマナ・ウォーカーを刺殺したその少年は、犯人としての自覚がありながら、その犯行の記憶を最後まで思い出すことができなかった。6年間の厚生院での治療のあと、かれは専門の研究チームに引き渡され、そこで発表された研究論文を実践するかわりに社会復帰をする権利を得た。しかし、かれはその2年後に研究者の監視から逃亡をはかる。捜査員リナリー・リーは、迅速な捜索で3時間後に青年を確保した。かれは再逮捕され、州警察に一時身柄を拘束されたのち、重度の更正施設への移送された。




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06/10/15