LOST VACANCES もともと戦闘要員であるのだし、それ以外のスキルは別に必要とされてこなかったから今回のことはまったくの特例だった。暗殺・殴りこみは得意分野だが、性格上とても問題があるのでそれ以外のことを任せようとする人がいままで現れなかったのも理由のひとつではある。彼女は違った。 任務の合い間にできた2日間の休みを返上するかわりに、前々から個人的に調査したいと思っていた南コーカサス地方への任務を出して取引きしてきた。最近は任務の量も半端でなく、要請しても思い通りになるわけではなかった。捜索は続けていたがいっこうにらちが明かない情況だったので、深く考えずに返事をした。女の性格をまったく失念していたのだった。 * ホテルの入り口にシルバーのメルセデスを横付けしたときから、かれは不機嫌さをそのまま体現していたが、とりあえず表立って抗議を言うバカはせずにやってきたボーイにキーを投げつけた。 「停めておいてくれ」 かしこまりました、とこの都市では五つ星ランクに入るホテルのボーイは、男の態度に慣れたように車をすべらせて地下駐車場へともぐっていった。荷物はあとで部屋へ届くはずなので、黒革のアタッシュケースだけを抱えてかれはふちが金メッキのガラスドアを目の前にした。中のボーイがすばやい動作でそれを内側に開いたのと同時に、左から腕がからんでくる。あまりにも気配がなかったので内心ぎくりとしたのだが、思い直してそちらを振り返らずにすんだ。 「慣れてるみたい」 「どこがだ」 「命令口調。それらしく見えるわ」 かれにしかわからない小声で囁くと、女は入り口のボーイにフロントの場所を愛想よくたずねた。 「左手の奥でございます」 奥様、と言いたげな顔で何も言わないので、かえって不自然に言葉が投げ出されたような感じがするが、たぶん色々な可能性を考慮しているのだろう。ありがとうと言って歩きながら、リナリーはくすくすと笑っていた。 「あんまり怖い顔しないでね・・・」 無言でいたら、ものすごく自然に腕をつねられた。それが、ナイフをあてられてもこうはならないだろうというくらいのものだったので、かれは今度こそ抗議をしようと口を開いた。だが彼女はそれより少し上手だ。かれが文句を言うより先に言葉をつなげてくるので、どうしてもタイミングを逸してしまう。 「――このあと何が起こっても」 神田は思わず閉口した。 そのあとフロントで名前を名乗って予約の確認をし、やたら気にさわる口調のボーイに連れられて12階の部屋にたどり着くまでに起こった数々は、他人が見ればまったく何の問題もないように思えただろうが、かれにとっては恐ろしく不愉快な出来事だった。 「まずこの部屋の説明をしろ」 「なにか問題でも?」 「ツインでいいだろうが!」 「いいお部屋なのに」 女はしかたなさそうな顔をしながら、着てきたドレスの色に合わないからという理由でわざわざ履きかえた銀のパンプスを脱ぎすてた。ずっと片手でかかえていた同じ色のハンドバックを横にたおし、有名ブランドのロゴマークに指先を押しつける。ロゴはブランド物だが中身は当然偽物で、しかし本物の倍は金をかけて作っている特注品だった。カシュカシュと中でロックが解除され、一秒もたたないうちに絨毯のうえには見慣れた黒い靴があらわれていた。「大体、この任務の目的を知って承諾したのに、今さら部屋がツインだのスウィートだので文句を言うなんて大人気ないわよ」 それをすばやく履きかえて、彼女は言った。ロビーで襲われたらどうするつもりだったんだと聞きたいが、たぶんそのためもあってかれがいたのだと言われそうなのでやめておいた。そうなったら反射的に盾になるくらいはしたかもしれないが、それ以上に盾になった自分を間違えて彼女が蹴りたおす確立の方が高い気がした。 「目的は聞いたが方法は聞いてない」 「そんなことないわ」 神田は思わず叫びたくなるのをこらえてこめかみをおさえた。「作戦開始の1分前にな。あれが説明になると思ってんのかよ」 コンコン、とちょうどそのときドアをノックする音が聞こえた。顔をあげた神田を制しながら、リナリーが立ち上がってドアに近づく。「どなた?」「はい、ナリタ様のお部屋でいらっしゃいますか? お荷物をお届けに参りました」 どうぞ、という声とともに入ってきたのは、先ほどふたりをこの部屋に案内したのと同じボーイだった。ワゴンに大小のスーツケースをのせ、がらがらと中まで引いてくる。 「自分でいうのもなんだけれど、大荷物よね。手伝いましょうか?」 「ミセス、ご心配には及びません。慣れていますから」 口調はやさしげに妻(ということになっている女)に語りかけながら、ミセス、と口に出したときには呪いでもかけたそうな形相で神田のほうを見つめた。ドアが開いたままになっていなかったら、間違いなくアタッシュケースから凶器が飛び出していただろう。 「ミスター、荷物をご確認ください」 「間違いないだろうよ、おまえがここに来るまでに一番小さな包みをくすねたりしてなきゃな」 「まああなた、たちの悪い冗談はやめてちょうだい」 神田の挑発を咎めるようにリナリーが言い、件のボーイの方はやけに芝居がかったようすで驚きをあらわした。 「ああいえ、お気になさらずミセス。・・・それにしても、日本のビジネスマンというのは自分の話す言葉だってなっちゃいないくせに、気位だけは完璧なブリティッシュ・イングリッシュを話す方々とおんなじだけ持っているんですからね」 まったく悪びれず、思わずといった様子でボーイは言った。あきらかに過失は客の方にあるとはいえ、ボーイが客にたいしてこれだけあからさまな皮肉をいうとは、このホテルも五つ星といわれるほどではない。しかし、先ほどから気に障ることばかりが続いているミスター・ナリタ(仮)には冗談ですまされるものではなかった。かれはいまや入り口のドアが開きっぱなしになっているのや、この部屋のとなりに本日のメイン・イベントが待っているのも忘れてアタッシュケースをつかんでいた。――「っのヤロ、」 「ごめんなさいね、このひと今日は少し機嫌が悪いのよ」 それをやんわりとなだめながら、かれの細君は今しも殴り合いを始めそうなふたりのあいだに割って入ったが、そのバックでは、ゴガン、とものすごい音がして持って来たなかでは一番小さな、しかし最も重量のあるスーツケースが僅差でかれらの足元にめり込む音が聞こえた。 「ボーイさん、ありがとう。あとでルームサービスを頼むわね」 「は・・・い」 もともと色素が薄いうえにさらに蒼白になったボーイは、彼女の笑顔にチップをもらうのも忘れて部屋を出て行きかけたが、入り口でやっと役割を思い出したようで、恐る恐るとってかえして、彼女の手からコインとしか見えないようなこれもまったくのまがい物を受け取っていった。 「あなた」 「ん、・・・ああ」 「わたし着替えるから。そのあいだにルームサービスの準備をしておいてね」 そういい残すと、リナリーはいつもの団服をひと揃え持ってバスルームへと消えていった。神田は、いつもなら誰だろうと気にせず目の前で着がえだす彼女が、わざわざ奥へ引っ込んだのにどちらかというと不信感を抱いたのだが、つづいて聞こえてきた水音に思いきり顔をしかめて、「風呂も入る気か?」とひとりごちた。もちろん答える声はない。 トントン、トン。 いや。―――かれはため息をつきながら、この任務に無謀にも飛び込んだ自分に嫌気がさしていた。壊す相手が大手企業の重役だったからといって、たかがそれだけのことにこのB級映画じみた茶番劇を演じる必要性が、かれにはまったくわからなかった。「端末にムービーチャンネルを入れたやつを呪ってやる」 言いながら、やたら重い(けれどさっき落とされたものよりは明らかに軽い)スーツケースを引っぱりだして、ロックキーの解除に取りかかった。指紋、30桁のアルファベット文字入力。中からは抗議するように小刻みにノック音が聞こえてくる。声紋。かれはスーツケースにむかって叫んだ。「おい、うるさいぞ!」 ピピピピ、と承認サインが現れたのを見て、神田はケースのふたを蹴り開けた。 「・・・っだあ、マジ熱すぎだし! しかもこれ30分でも首つりそう。アレンって華奢だなー」 文句をいいながらむくりとスーツケースから飛び出した男は、腰が痛い!とわめきながら体をのばした。 「なんで立場が変わっていやがる」 「うわ、ユウってば機嫌最悪だな」 それも予測の範疇だったようで、やっぱりなあ、といいながらラビは縮こまっていた体の感覚を確かめるように転がったり逆立ちしたりをくりかえした。「うぜえ」 「ひど!これけっこうキツいんだぞ。正面玄関から堂々と入ったやつに言われたくねえさ」 「なんでおまえが中であいつが外に出てんだよ」 「びっくりした? 実はオレも」 まさかスマキにされるとはねー、なあおまえわかる、この怖さ!廊下歩いてたらいきなり暗闇に連れこまれて相手の顔もわからずに気づいたときにはぐるぐる巻きだぜ。オレもうほんと、「売られるかと」 神田は思いきりためいきをついた。「なんだそれは」 「まあ、体系で選んだから怒るかなあとは思ってたんだけど、一番余裕があるのはアレンだしさあ。いつもだったらそれでも仕方ないですましてくれるんだけど、今回はおまえがいたから」 「オレが、」 「旦那様だろ? それでたぶんキレた」 ああ、来るんじゃなかった。こんなふざけたショーに参加するくらいなら、たとえ猶予が二日間でも自力でコーカサスに行くのだったと神田は思った。「オレだって好きでこんなところにいるわけじゃねえよ・・・」 「まあまあ、来てくれてこっちは大助かり」 「大体、こんな大掛かりなセットのどこに意味があるんだ? いくら向こうのセキュリティーが万全でも、大統領を襲うわけじゃなし、潜入・暗殺でものの一時間もかからねえだろうが」 神田が本気で訴えるのを見てラビは苦笑したが、それを説明しようとはしなかった。――「ごめんな」 本当だとかれは内心毒づいたが、それをこれ以上言ってもしかたがないとも思ったので口に出すのはやめにした。それに気持ちはわからないが、予想はつく。 入念な下調べがあれば一時間でカタがつく仕事にこれだけ大掛かりな舞台をつくりあげる労力を、もっと他にまわせばいいと心底思うが、ようするに、かれらはそれをつまらないと感じるのだろう。 この仕事も本当は正規の任務ではなく、3人が空いた時間を割いてわざわざランク度の低い相手を標的にしていた。完全な遊びだ。趣味が悪すぎてだれも加わりたがらないし、それを止めるのもバカらしいので放任されているだけだった。こんなやつらの仲間だと思われるのは心外だったが、ごく簡単な任務でコーカサス行きが手に入ると思えば安い話のはずだ。(あのピエロがいなければ、そうやって思い込むこともできたんだろうが) ピピ、とラビの通信機が点滅して、折り悪くアレン・ウォーカーからの通信が入ったのに神田は思いきり顔を歪めた。それを目の当たりにしたラビは、外からの会話を受けながらひいい、と恐ろしげに肩をすくめて見せたが、そのわりに声だけは普段と変わらずにこちらの情況を伝えていた。 「ん、リナリーは、いまちょっと手が放せない。メイン・イベントの到着はあと2時間先だろ? え、ああ。うーん、ちょっとまって・・。ああ、ちがうよ、そいつは愛人のほう。あれ、愛人も男だって言ってなかったっけ?」 変な方向に盛り上がる会話に呆れて、かれはもうさっさと準備だけでも整えておこうとスーツケースを引っ張り出した。通信機、無線傍受機、暗視カメラ、・・・のとなりに当たりまえのように着替えをつっこむのはやめろといつも言っているのに、山ほどドレスが出てきたのには辟易した。「あいつは一体何しに来たんだ・・・」 呆れ返った神田に、通信を切ったラビが答えた。「ヴァカンスにだろ」と、当たりまえのように。 もうこいつらに抗議をする気も失せたしバカらしいと神田がやっと気がついたところへ、首謀者リナリー・リーがやっとバスルームから顔を出した。 「あら、ラビ出られたのね」 全裸で。 「・・・・・服は持って入ったんじゃなかったか?」 「下着だけ忘れちゃって」と、とりあえずバスルームの中に立ってはいるが身体を隠す気はまったくないらしく、ドアを半分開けたまま体から髪からぼたぼたと雫をたらしていた。 「ラビの足元のに入ってるから。ピンクのレースね」 「あ、オレこのセット好きだな」 はい、と上下の下着を投げてやりながらラビが言った。「でもさ、リナ。そういうこと、ほかのやつの前では絶対しないほうがいいぜ。アレンとか、色々ショックで倒れちゃうから」 ラビの言葉に、リナリーはなぜかそのときだけ顔を赤らめた。 「バカね、アレンくんの前でこんなことするわけないじゃない!」 だからと言ってこのふたりの前で臆面なく全裸をさらすのも問題だったが、あいにく年相応に恥ずかしがるには3人はともに死線を越えすぎていたし、男女の興味も十代のうちにすっかり消化されてしまっていた。 「どうよ、あの初々しさ。アレンの前では未だにあんななんだから、ほんと詐欺にもほどがあるさね」 「両方だろ」 「なにか言った、あなた!」 バスルームから聞こえてきたたちの悪い冗談に、ラビがあははと声をあげて笑った。「そういやおまえら、スウィートがどうのって喧嘩したんだって?」 ラビの言葉に、リナリーはけっきょく持って入った服をわきに抱えて、下着姿のままベットに腰掛けた。 「そうよ、このひと新婚の妻に向かってツインにしろって抗議したんだから」 「うわあー、最悪」 「じゃあ、おまえこいつがオレにベットを三分の一でも空け渡すと思うのか? 床に寝るのはオレなんだぞ」 「3人で寝ようぜ、昔みたく。アレンは仕事がすむまで仮眠室だしさ」 楽しそうに提案するラビに、リナリーはまあ、と驚いたように二人を見た。 「なに言ってるの、この部屋は、任務後にわたしとアレンくんがふたりで使うのよ?」 もちろんベットも。と当たりまえのように宣言したリナリー・リーをまえに、男たちはふたりともしばしものも言えずに固まった。しかも同時に、ものすごい想像力で恐ろしいことを考えてしまったので、神田はめずらしく顔を蒼白にしたし、ラビは口元を押さえてうずくまった。 「神田のおかげでいい部屋がとれてよかったわ。夫婦やるならラビでももちろんアレンくんでもいいけれど、日本人の実業家夫婦っていうのが一番自然に入り込めるものね」 スウィートに、と言外に女が言った言葉はふたりには筒抜けだった。 「おまえ・・・まさかそれで」 * 真相がどうだったのかあの任務のあとアレン・ウォーカーがどうなったのか、けっきょく神田も、ラビでさえ知ることができなかった。任務後は予告どおりさっさと部屋を追い出され、べつにとってあったツインに荷物ごと放り込まれてしまったからだ。 翌日リナリーはすこぶる機嫌がよかったが、アレン・ウォーカーの姿はけっきょくどこでも見かけることはなかった。聞けば答えてくれるかもしれなかったが、ただあのときのリナリーの顔を思い出すだけで、ふたりとも言いしれない恐怖を味わうので追及したくてもできないのだった。 とくにラビなどはスマキにした張本人がアレンでなくリナリーだと知ってからは、起こらなかったあらゆる可能性を考えてしまって夜も眠れない日が続いたという。後日談だ。あの任務はなんなく終わり、コーカサスの任務は約束どおり2週間後に迫っていたが、神田はことがこれで終わったとはどうしても思えなかった。あの日からこちら、神田もまた、いままでにないひどい不眠症に悩まされている。原因はわかっていた。 最近、かれの傍受不可能なはずの個人用端末に、次の休暇をたずねるブラックメールがまぎれこんでくることがあるのだ。差出人はミセス・ナリタ。それは彼女の夫にあてたメッセージだったが、かれはそれを消去するたびに、何かとてつもなく大きな渦に足をとられたような気がして、がらにもなく背筋を寒くするのだった。 BACK 06/9/19(ナリタさんの名前はまったくの思いつきです、ごめんなさい) |