コンビニエンス (Des 1999)





 水槽のふちに座って、ゆらゆらとゆれるエナメルの水をながめていた。すみまで磨かれた目の前の水槽のガラスはなめらかで、さわると溶けそうな泡がはりついていた。それは水族館でいちばん小さな水槽で、先日このなかにおさまっていた特別展示のアルビノセルフィンプレコは300マイル離れた水族館にもどされたばかりだった。いまは空だ。ラビは手をのばして銀色にひかる水泡を外側からそっとなでた。
 子供のころ学校の課外授業で水族館に行ったことがあった。こことはべつの、もっと小さな民営のところだ。そこには奇妙な球体をした水槽があって、いちばん小ぶりなその水槽には小指くらいの熱帯魚が入れられていた。それをながめていると、ふいにうしろから声がした。手を入れて、とその声は言う。ふりかえると教師がにっこりとわらっていた。ほら、この穴に。幼いラビはぎらぎらとひかる水槽に目を凝らした。よく見ると、ガラスには手を入れられるだけのくぼみがある。反対側から見ると、まるで手を水の中につっこんでいるように見えた。
 かれは教師にいわれるままにおずおずと手をのばしたが、そのときのなんともいえない恐怖をいまだによく覚えている。穴の中につっこんだ手は外からはぐにゃぐにゃと曲がって見え、のばしてものばしても、あるはずの終わりが指にふれなかった。外側から見えているのに、自分の手がどこかべつの次元へむかってのびているように感じていた。ガラスは球体で、外から見たよりも穴はずっと深かった。そういう効果をねらってつくられたものだとわかっているのに、かれはそれ以上手をのばすことができなかった。
 幼いころ植えつけられた恐怖感というのはなかなか抜けないもので、いまでも水槽にふれるのは苦手だった。あのなめらかな面に触れたいと思う気持ちと、表面がぐにゃりと溶けて腕ごと持っていかれる感覚とが同時にわき起こる。空の水槽に触れていると、だんだんと気分が悪くなってきた。蛍光ライトに目眩がする。がらがらとくずれていく音。これはただの曲だ。さっきからかれのヘッドホンにはミキシングされたデジタル音声がながれている。
 肩をたたかれた。ふりかえって、少しわらう。
「――――」
「なに、なんていった?」
 ぼそりとささやいた言葉が聞き取れずに、かれは少しだけヘッドホンをずらした。彼女は肩をすくめて、なんでもないわ、と笑った。細い腕をかれの腕にからませて、空の水槽をいっしょにのぞきこむ。
「なにをしていたの?」
「アリーにお別れを言ってた」
「うそ、わたしわかるわ。ラビの考えてること」
 彼女は小さく笑って言った。
「へえ、当ててみて」
「あのエロい水槽のこと。それから最近できたあたらしいカレのこと。今日の夜のこと」
 別にそこまで深く考えていたわけではなかったのだが、リナリーはかれの顔をみて、当たりだと踏んだらしい。楽しそうにくすくすと笑った。かれは苦笑しながら彼女に腕をひかれるままにそこをさり、天井を水の流れるドーム水槽を進んでいった。それは出口へとつづく道だった。
「リナ、まだ全部見てないんだけど」
「だめ、もう帰りましょ」
 彼女の顔は笑っていたが、目の奥は暗く、じっとまえを見つめたままだった。
「あなた、ひどい顔よ。いまにも倒れそう」
 せめるような彼女の声に、かれは反論しなかった。言った彼女のほうが、青ざめた表情を必死に隠そうとしていたからだ。リナリーがなにを言いたいのかわかっていた。腕を引きながら、つとめてゆっくりと歩を進めるリナリーをかれは呼んだ。彼女はふりかえった。
「さっき、」
「なに?」
「なんていったの? 水槽の前で」
「べつに。ただ、魚にあきたのって」
 目眩がした。この濃密な空気。圧迫感。かれは球体の水槽につっこんだ手を思い出した。押しつぶされてぐにゃりと溶ける。溶けたからだはそのまま透明な壁の一部となって、彼女のまわりをぐるぐると覆っていく。彼女がきゅっと指先をにぎった。かれはすこしだけ笑いながら、その手をにぎりかえした。

 かれらはお互いを引っぱりあいながら、ずぶずぶと水の中に沈んでいく。かれは溶けて彼女の壁に。彼女は溶けてかれの壁に。透明な水槽が中身もなく重なりあいながら沈んでいく。沈んでいくことは不快ではない。かれらは水槽に無理やり入れられた熱帯魚ではない。かれと彼女は。かれは彼女を置いてはいかない。かれらはひとつのものではないのだから、何度でも、必要なだけ、そうやって約束をくりかえしている。




コンビニエンス・シリーズ
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06/2/5