そんなときはリー不動産に




 そもそも3人がいっしょに暮らしはじめたのは、わたしがそうすれば、と冗談のようにかれらのまえで言ったからだ。だってそのときわたしの友人の3人の男の子たちは、それぞれが色んな事情で財産 (といっても最近まで学生だったひとの持ち物なんてたかが知れているわね) を失いかけていたし、あろうことか、その残りのほんの少しまでも使い切る寸前だった。
 夢だとか彼女だとか、・・・まあ食べ物はしかたないけれど。生きるための優先事項だものね。かれの場合はそれがブラックホール並みに底知れなくて、貯金の方が先になくなってしまったのだわ。食べても食べても太らないって女の子のあこがれだけれど、かれを見てからわたしは自信をもってそうと言えなくなってしまった。いくらなんでも、破産するまで貯金を食べつくすなんて、ほんとう、かなしくてしかたないでしょうね。
 そんなわけで、3人は実はそれまでまったく面識がなかったにもかかわらず、冗談めかした (というか、ほとんど嫌味ね) わたしの提案にのって、残りのお金にわたしへの貸しを上乗せする形でアパートを一部屋借りることになった。まったく、女の子にこうまで助けをもとめる男の子達が3人もこの国にいたなんて、驚きだわ。友人でなかったら、こんなお客にはぜったいに部屋を貸したくないものよね。

 と、そんなふうにその部屋の仲介をしたわけだけれど、3人は暮らしてみればそれなりにうまくいっていたらしかった。もっとも、それを逃せば路頭に迷うしかなかったのだから、わたしとしてはユニットバスにキッチンつきのワンルームでも、転がって寝ればいいじゃない男の子なんだから、としか言いようがなかった。それに、たとえ床板が軋んで抜けそうでも、入り口の鍵が3回に1回は詰まってしまっても、シャワーが頻繁に水になっても、その部屋は実際スペースとしては広くとられていたのだ。(それだけが売りだった、といえなくもないわ)。何年もアトリエとして貸し出していた部屋で、だからか、その部屋は天井も高いし、物がなければ踊れるくらいの広さがあった。そして、幸いなことに3人とも財産というほどの持ち物はとっくに売り払ってしまっていたので、寝られるだけのスペースがあれば問題なかったのだ。
 あれからそろそろ1年半が過ぎようとしていて、一応まじめにやっていた3人は、今ではとりあえず人間らしい生活を送れるようになったらしい。はじめのころはただの倉庫みたいだった部屋にも、いまではちゃんとベットがあるし。(ただし、2個でワンセットのバーゲンで買ったから3人のうちひとりはいまだにソファ暮らしだ)
 でも、ちゃんとひとりで暮らせるようになったのに3人はまだいっしょに暮らしている。暮らし始めてひと月めには、3人がそれぞれくだらない理由で「もういっしょに暮らせない」と相談を持ちかけたくらいなのに。あまりにくだらなすぎて、3分で追い返したけれど。だいの男の子が、食事のことなんかでそんなに深刻に悩むものではないわよ。いっしょに暮らせないなんて。お互いに出身地のちがう新婚カップルみたいな苦情を聞くために、わたしはカウンターに座っているわけじゃないわ。

 で、1年と半年目の今日。いつものようにあまりおいしくないインスタントコーヒー (これはいつも兄が用意するのだけれど、わたしが一度目のときうっかりお世辞で「おいしいわ」と言ってしまったせいで、いまだにコーヒーはこのメーカーなのだ。ああ、言うんじゃなかった) を飲みながらカウンターに座っていると、入り口のドアにかかった鈴がちりん、と鳴って、例のあの3人のうちのひとりが顔を出した。あら、とわたしは思わず顔をほころばせる。今日はこれで3人目ね。でもわたしが前のふたりより、かれのことをもっと楽しみにしていた理由は、かれが家賃を支払いに来るときには必ずおいしい紅茶を差し入れてくれるからだ。
「いらっしゃい、アレンくん」
 わたしは言って、上機嫌でにこにこしながらかれにその辺のイスをすすめた。「こんにちは」とかれはとても品のいい笑顔で言って、わたしに今月分の家賃と好きだといったメーカーの紅茶をわたしてくれる。
「今日はリナリーの好きなダージリンにしてみました。夏摘みの、すごくいいのがお店に入ってきたんですよ」
と。かれは食べ物のことを話すとき、ほんとうにうれしそうだから聞いているわたしもうれしくなる。あんなに極限の状態から、こんなふうになるまでに3件も料理店を食いつぶしたのだもの。いまのお店はなかなか評判の洋菓子店で、かれの腕をかってくれているし、大量につくって売れ残りも適度にあるというのが魅力的だ。チョコレート以外でかれにおいしく頂かれないものはないのだもの。それに、食べるものにしか興味のなかったかれが紅茶の良し悪しを知るようになったのはわたしにとっても魅力的。これで、あと何週間かはインスタントコーヒーの呪いから開放されるわ。
 わたしは嬉々としてコーヒーを飲みほすと、店の奥に引っ込んで、かれの差し入れてくれた紅茶に今朝用意しておいたゴマ入りの塩クッキーをそえた。かれはその組み合わせがことのほか気に入ったようすで、わたしが3枚目をつまみながら「あとはどうぞ」というと、いつも以上に嬉しそうな顔をした。
「おいしいね、このクッキー。帰りに買っていこうかな」
「これはね、西側のウォンさんのお店の。最近はじめたんだけど、ね、なかなかおいしいでしょう?」
 首をかしげてそう聞いたら、かれは冬眠前のリスのように口の中をクッキーでいっぱいにしたまま何度も首をたてにふった。
「ほんとう。最近チャイナタウンの店は売れ行きいいんだよね」
「うれしいんでしょう。たくさん売れ残って」
「・・・・半々、かな」
 自信がなさそうにかれは言って、紅茶のカップに口をつけた。ごまかすようにきょろきょろとあたりを見回して、そのあと右の壁にかかったカレンダーから話題を見つけ出したらしく、「そういえば、」と向き直った。
「今日はもう来たんですか?あのふたり」
 かれの見ていたカレンダーには、今日来るはずの3人の名前が書き込んである。どうせいっしょに暮らしているのだから、みんなで来るとか、まとめて持ってくるとかすればいいのに、かれらはいつも同じ日の違う時間に電話をかけてやってくるのだ。
「ええ、さっきね。ラビが来て、おしゃべりして帰っていったわ。神田は午前中に、家賃だけ置きに」
 最近仕事がいそがしいみたいよね、と言うと、かれは、うんそうみたいだ、とあまり気にすることでもないように返事をした。男の子って、そういうときはそっけないのよね。
 わたしとは幼なじみでいちばんつきあいの古いかれは、やっとの思いで最近名前が売れはじめた若手のノンフィクション作家だ。チャイナタウンのいちばん治安が悪い側の孤児だったころからかれを知っているわたしは、あのひとの書いた文章のはじめの読者でもある。それだけ思い入れもあるし、なによりわたしは人付き合いの悪いかれの数少ない友人でもあるから、こうやって心配もしているのだけれど。
 そんなことを考えていたら、思っていることが顔に出てしまったらしく、「大丈夫ですよ」と年下のかれに言われてしまった。
「僕ら、このごろは3食ちゃんと食べられるようになったし、僕とラビがしょっちゅう神田をテーブルに引っぱり出しているから、忙しすぎて食事抜いて貧血で行き倒れることはなくなりました」
「そう、よかった」
 しっかりしているようなのに、没頭しすぎるといつもそれ以外がおろそかになってしまうのが神田の悪いところだ。書くという行為以外、かれは昔から自分にも他人にも無頓着な少年だった。だから友達が少ないのね。だれかがいっしょにいて気を配ってくれるということのありがたさに、かれが気づいていればいいのだけど。文句の出ないところを見ると、なかなか居心地はいいらしい。だって、うらやましいことに目のまえのかれがいれば、食事がまずいということはまずありえないし、ラビだって本来は世話焼きな人間だ。・・・女の子にかまけることがなければ、だけど。あ、そういえば、とわたしは気づいて顔をあげた。
「ね、ラビがまた新しい女の子にご執心なんですって?」
「え?・・あー、まあ、ね。そうみたい」
 かれはあいまいにうなづいて、でも、たぶん大丈夫、とこくりとわたしにうなづいた。「今度は、若い奥さんだし」
「あら、また不倫なの」
「うん、そうなんだけど、相手の旦那さんは結婚5日目で彼女を置いて出て行ってしまったんだって」
 それを聞いて、わたしは安心するよりも、え、とおどろいて声をあげた。だって、5日目って。一週間もたってないじゃないの。そう言ったら、かれはそうなんだよね、と気の毒そうにうなづいた。「なんか、結婚詐欺だったんじゃないかって」 まわりはみんな思ってるけど、彼女はそうは思わないみたいで、まだ警察にも届け出てないんだ。
「まあ、それは・・・」
と言ったきり、わたしはどうやって言っていいのかわからずに口をつぐんでしまった。相手はそれでも、わたしの気持ちがわかるというようにうなづいてみせる。
「でも、だから今度は訴えられることはないと思うし。ミランダさんは、いままでラビがつきあってきたひとみたいに、貢がせて骨の髄までしぼりとるってことはしないと思うな」
 逆に、彼女がかれの毒牙にやられないかすごく心配。とかれは真顔でわたしに言った。これはまた。かれもこの1年半ですこしは成長したのかしら。満たされている生活で、世界の見方が変わったのかもしれないわね。
「・・・でも、それにしても。彼女の旦那さんはいったいどんな理由をつけて奥さんを放っているのかしら。ラビが好きになるくらいだから、きっとすごく美人なんでしょ」
 わたしの質問に、かれはうなづいて。「うん、すごく。でも、理由が理由だから、やっぱり詐欺なんじゃないのかなあ」
「それってどんな?」とわたしが聞くと、かれは小さく肩をすくめた。
「それがね、調味料とか、味付けが自分にあわないってさ」
 新婚さんだとよくあるんだよね、などと恋愛オペレーターみたいな意見を言っているかれのことを、わたしはおもわずまじまじと見つめてしまった。かれが気づいて、どうしたの?とわたしにたずねると、わたしはもう我慢できずにふきだして笑った。
「聞いたことのある話ね、それ」
 飲みかけの紅茶をむせてしまうくらい笑ってそういうと、かれは一瞬すごくふしぎそうな顔をして、それから「ああ」と気がついた。「あったね、そんなこと」 と、すこしバツが悪そうに。
「・・・でも、あれは3人分の食料に買った安物のスイカに、神田が塩をふっちゃったからだよ」
「3人が別々に相談にきたわ」
「だって、塩だよ?スイカに塩って、どんな味覚してるんだろう」
 そのセリフも、一年前にいやと言うほど聞いていて、わたしはまだ仲のわるかったころの3人を思い出して、また笑った。かれはといえば、そのときの味を思い出したような苦い顔をしている。
「信じられないよね、かれ、りんごにも塩なんだよ」
 でも、それは切り分けたりんごが変色しないように、塩水につけるのだ。それはときどきうちでもやるわね、兄さんが。わたしはレモン汁がすきだけど。
「あ、僕も。そうだよね、やっぱりレモンだよね」
 まあ、あのときのかれらにレモンを買うことができたかどうかはさておき。
「じゃあ、トマトは?」
「かれはやっぱり塩。ラビはなにもつけないよ。で、僕は砂糖」
「あ、わたしも」
「ミートパイにはココナツ」
「そうそう」
「ヨーグルトは?」
「糖蜜よね、お砂糖よりも」
 それで、わたしたちは思いつくかぎりの調味料ゲームをつづけたけれど、おもしろいくらいふたりとも味覚が同じでおどろいた。
「僕ら、すごく合うみたい」
「ほんと」 ねえ、とわたしは紅茶を飲んでいるかれをみながら、思いついて提案してみた。「アレンくん、わたしたち、きっとすごくいいパートナーになるわ」
 かれは、ぱちりと目を瞬いて、そのあと「うん、いいかも」と言った。
「じゃあ、あのふたりがひとり立ちしたら、僕チャイナタウンに店をひらこうかな」
「で、店舗経営はわたしがするのね」
「うん、そう」
「新婚カップルみたいに、味覚で争うこともないものね」
 言っているうちに、それはすごくすてきな提案に思えてきて、わたしはこの辺にいい立地の空き店舗はあったかしら、と考えた。ああ、そういえば、北側にそろそろ空きそうな予感の雑貨屋があったわね、売るだけなら、あれでもう少しいいキッチンを造り付ければいいかも。魅力的だわ、毎日このかれのおいしいケーキと、ブレンドティー。
「でも、いちばんの問題は、あなたたちがひとり立ちできるかどうかよね」
「僕はともかく、あのふたりはねぇ」
 ひとりだと食事も満足にとれないひとと、どこへ行ってしまうかわからない優柔不断。でも目のまえのかれも、味覚のちがいに頭をかかえながら、それなりに楽しく料理番をしているようだ。新婚さんも、いっしょに暮らしはじめて最初の倦怠期を乗りこえると、長くつづくものなのかしら。わたしから見たかれらは、なんだかあと3年くらいはいっしょにいるような気がするわ。
「なんだか望みが少ないわね」
「結婚生活は妥協が大事だっていうから」
「それだって、結婚するまえからじゃ、お話にならないわよ」
 ためいきをつきつつ、ここはやっぱり長期戦で、まわりから固めていくべきかしら、と考える。とりあえず、固まりそうなところから。
「ねえ、ミランダさんって、引っ越すつもりはないのかしら」
「さあ、どうだろ。彼女、あの庭をすごく大事にしてるから。・・・・今度紹介しようか?」
「ええ、そうね、ぜひ」
 彼女がうまくラビを扱えるようになったら、ちょっとは見込みもあるかもしれないしね。それに、そんなきれいで純情な奥さんを、ラビの毒牙にはかけられないわ。あとは、神田ね。・・・・こっちは、だめだわ。今度じっくり考えましょう。ラビよりよっぽど手ごわいもの。

 部屋にあるからくり式の置時計がひらいて、なかの踊り子が午後4時の鈴をならすと、かれは「じゃあ、そろそろ」と言って残しておいた最後のクッキーをほうばった。
「じゃあ、今度は紅茶といっしょに新作のケーキも持ってくるね、ハニー」
「まあ、たのしみだわ、ダーリン」
 かれはわたしの片手をとると、冗談ついでに指先にキスをして、たのしそうにくすくす笑った。
 そうして、今日の最後の客が入り口の鈴を鳴らして出て行くのを、なんだか仕事に出かける夫を見送るような気持ちで見守って。というより、これは学校へ行く弟とか、息子をみている気分かもしれないわね。かれを見ていると、そういうすごくやさしい気分になってくるもの。いますぐ家族になったとしても、あまり驚かずに毎日をすごせそう、と、わたしは思いついて、引き出しのファイルの中からチャイナタウンの空き店舗のリストを取り出した。
 男の子たちの事情はさておき、新しいくらしとちょっと先の未来のためには、すてきな物件の確保は不可欠だものね。そんなときはリー不動産に。キャッチコピーがあたまの中を流れていくと、わたしはいままでのいつよりもうきうきとした気持ちで、手元のファイルをめくっていった。かれのくれた、おいしい紅茶を飲みながら。
 やっぱりかれを、あの人たちだけの専属シェフにしておくのは、どうしてももったいないと思うのよ。



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05/9/4 (調味料バトンに付属)