23番地の庭




 地下鉄の駅を出たら、いっしゅん耳鳴りがするくらいのすごい雨がふっていた。すごいなあ、とアレンはやけくそのように絶え間なく雨をぶちまけている黒い空をのぞき見た。つぶやいた声は、空と言うよりはここにいないかれの恋人へ。だって今朝はあんなに晴れていたというのに、ラビときたら出掛けに洗濯物を干しながら「今日は雨さ」とアレンに向かって言ったのだ。胡散臭そうな顔のかれを見て、「午後から大雨。これ、絶対」 いいながら、ラビ自身はというと小さな中庭に楽しそうに洗濯物を干していた。アレンは肩をすくめてアイボリーの傘を持った。「雨がふるなら、濡れちゃうんじゃないですか」「そうしたら、晴れるまで干したらいいさ」 実際のところ、ラビはちょっとかわっている。アレンは空いっぱいのブルーを吸い込んで「いってきます」と声をかけた。「まって、あなた!いってらっしゃいのキスを忘れてるわ!」「ラビ、ふざけてると遅れちゃうよ」 ラビは笑ってアレンのあたまをつかまえると、白い髪の毛にキスをして自分もモスグリーンの傘を持った。「置いていこうとしたくせに」 ラビが言うと、アレンは「だって遅いんだもの」とばたばたと古びた扉に鍵をかけた。「そういうことをしてると、今年こそ教授に見捨てられちゃいますよ」
 駅までの近道にロットー花店の前を通ったら、2階の部屋から顔を出して、ミランダがあいさつをしがてらロココローズの花瓶を落下させた。最初の日以来、その窓の下を慎重によけて通っているふたりは、すばやく花を拾うと「もらって行って!」と手をふる彼女にお礼を言って、それからはほとんど小走りで駅まで向かった。
「オレ、アレンと同じ学年になるまでまってよっかな」
 息を切らして、運よく遅れた地下鉄に乗りこむと、手に持ったままのバラの花をくるくる回しながらラビが言った。はい、とそのバラの花をアレンに向けて。「じゃあ僕は飛び級してさっさと卒業しちゃおうかな」 受け取られなかった花の先っぽが、へろんと下を向いた。「ひ、ひどい」
 晴れた水曜の通学に、渇いた傘とバラをもったかれ。ドイツ産ローズの淡いピンクはどう考えても幸せの色をしている、なんて。思ってしまったので、アレンはあわててそっぽを向いた。

 予告どおりのどしゃぶりの雨をしばらく感心して眺めていたアレンは、いつのまにかとなりにやってきて「あらあら」とつぶやいた若いご婦人に気がついた。おなかが大きくて淡いピンクのマタニティドレスを着た彼女は、アレンとおなじように空を見上げて「やまないかしら、」と眉根をよせた。「どうかされましたか?」 思わずたずねると、彼女はとなりにいたアレンにやっと気づいて苦笑した。「傘を忘れてしまったの」「タクシーを呼びましょうか?」「いいえ、すぐ近くなのよ。この二つ先の角」「それでは、」 アレンは躊躇なく傘をさしだした。「よろしければどうぞ」
 走って家まで帰ったけれど、そのころには足の先まですっかり水浸しになっていた。玄関先でぬれたバックをばさりと床に落としておいて、泥だらけの靴と靴下をぬぎすてると、アレンは裸足のままぺたりぺたりと部屋を横切ってキッチンへ向かっていった。うしろを向くと、きのう掃除をしたばかりのカーペットに、ぬれた虫がはったようなデニムのしみがついている。まあいいや、どうせ次の当番はラビなのだし。とひどいことを思いながら。かれはすっかり冷えてしまったからだを温めようと、コンロにかけたままのミルクパンで湯を沸かした。ぼたぼたと髪からしずくがたれている。コーヒー粉のストックとフィルター。マグカップを出したところで、「ああ、アレン!」とキッチンのはしから驚いたようにラビがさけんだ。
「あれ、ラビ帰ってたんですか?」
「帰ってたって、ああ・・あー、おまえ!」
 ラビは右手で赤毛をかきまわすと、すばやくバスルームから乾いたバスタオルをもってきた。「まったく、おまえは何本傘なくせば気がすむんさ」「・・まだ5本目だ」タオルの下からアレンが小さく抗議をすると、ラビはすこし怒ったように、髪の毛をふく力を強くした。「バカ、バカ。おまえぬれすぎ」
 しばらくのあいだガシガシとアレンをふいていたラビは、それでもかれがぬれぼそった犬のように湿っているのを見て、とうとう腕を引っぱってバスルームへ向かった。「・・ていうのはいいんだけれど、なんでラビもいっしょなの」 いっしょに入ってきたラビを見て、アレンは聞きながらバスタブに湯をはった。「いいじゃん、オレも。ついでに湿っちゃったから」「いみわかんないよ」
 どぼどぼと盛大に音をたてるバスタブにアレンは手をつっこんだ。「お湯かげんはどうですか、あなた」ラビがふざけて言うので(最近かれはこのネタにこっているのだ)、アレンはちょっと顔をしかめて。それから思いついたように、「こんな感じでどうですか?」とにやりとわらってシャワーバルブをくい、とひねった。「え、わ、・・うわ、あつ!」

 ミルクパンのお湯はぶくぶくと泡をたてて沸騰している。ラビはアレンの出したフィルターをマグカップに張って湯を注いだ。バスルームからはシャワーの音が響いている。カーペットにしみこんだデニムの跡は、そこからキッチンまで引きずりながらのびていた。ぼたぼたと髪からしずくがたれている。くしゅん、とかれはひとつくしゃみをした。窓からは、中庭に干されたままのバスタオルがほかの洗濯物といっしょに大雨にさらされていた。冷えたからだを温めるためにコーヒーをいれながら、かれはいまバスルームから恋人の声がかかるのを待っているのだけれど、実をいうと、それはそれから10分もあとのはなしだ。そのあいだ、バスルームからはひっきりなしに、きげんのいい恋人の鼻歌が聞こえていた。



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05/7/10 (アレンをしあわせにし隊に献上)