あのころ僕らはしあわせだった T




 僕らはあのたかい壁の内側で、いつもいっしょに過ごしていた。どこまでもつづくグレイ。空を裁断するフェンスの黒さと胸の悪くなるようなすえた空気のそこが、僕らの世界のすべてだった。
 はじまりは、今から10年ほど前になる。まだ僕が壁の外で暮らしていた頃、となりにいた大事な誰かがとつぜん死んだ。誰だったか、なぜだったか、そんなことはすっかり忘れた。ただ、かれは洗い流された泡のようにふと消えてなくなって、僕は消えずにはしの方に汚れたまま残ってしまった。はじめは誰も気にしなかった。僕は小さくて何もできない、一見いるんだかいないんだかわからない塵みたいだった。でも、すりきれた服がぼろぞうきんみたいになってそれでも消えない僕のことを、だんだんみんなが気づきはじめた。ゴミひとつ落ちていない町のなかにこびりついた小さな汚れ。それをかれらは嫌悪した。そして僕はあっけなく首根っこをつかまれて、壁の内側に入れられた。町の少年保護施設。つまりゴミ溜めだ。きれいな町にかならずクズかごが設置されているように、ここにもちゃんとそれがあった。見あげても向こう側の屋根一つ見えない、高くて灰色のコンクリート塀。触るとひんやりしていて、ざらりとすべる。見上げるとべた塗りの空色に、有刺鉄線のコントラストが映えていた。そのときから、そこが僕の世界の隅っこだった。そこより向こうはあってもないのと同じことだ。僕はぼろぞうきんのまま、端っこに背をあずけて、目の前にある現実を見つめながら背中の向こうのあるはずのない世界を感じていた。あるはずがないのに、それはたしかにそこにあって、僕の後ろでとくんとくんと息づいていた。忘れたくなかったのだ。僕は大事なかれを忘れたくなかった(実際、そのときはまだ少しだけ顔も覚えていたのだ)。目の前にある現実は、薄汚くせま苦しく、ぼろぼろの少年たちはだれもが何一つ持ってはいなかった。記憶すら。僕はかれらを拒んでいた。消えたように過ごすかわりに、僕は僕自身のわずかな持ち物をけして放すまいと思っていた。
 ところがある日、目ざといひとりが僕のことに気がついた。僕に向かって小石を投げて、「ぼろぞうきん、」と軽い調子で話しかけた。そう、ぼろぞうきんていうのは、かれがはじめに言ったのだった。
「オレがはじめに気づいたとき、アレンはまるでぞうきんが、もっとボロボロになって捨てられたみたいだった!」
 かれはとても機嫌がいいとき(といっても、かれは始終わらっているひとだった)、そんなふうに僕を笑い話のネタにした。もっとも、そのはなしで笑ったのはやっぱりかれだけだったのだけれど。
「ラビってそれ以外にネタがないみたい」
「冗談のカケラもないやつに言われたくないさ」
「それをいうなら神田でしょ」
 ラビは僕のことばにおかしそうに笑い、神田は機嫌が悪そうにチッと舌打ちをした。
「おまえらの話に俺を引き合いに出すんじゃねえ」
「怒らない怒らない」
 でも、そんな話が出たのはたいてい食料配給の日だけで、心から笑えたのもそのときくらいだった。施設では、保護という名目をかかげながら実際には週に一度だけしか食料がくばられなかった。しかもどう考えても3日分。それが増えつづける子供に対する施設の対策なのか、おかげで壁の中は満員になることがなかった。いつでも増えた分だけの子供が消えた。そんなとき、僕は記憶の中で薄れかけた大事なひとのことを思い出した。人、というよりもその存在。かれはたしかにそこにいて、消えたように死んだ、という痛みのような記憶だけがかれをかれたらしめていた。僕はあのふたりといっしょに過ごしはじめたころ、ただひとつ、それを忘れることだけが気がかりでならなかっが、けっきょくそんなことにはならないのだと気がついた。痛みは小さな傷になり、傷は小さくても消えることがないのだと。ラビの記憶もそうだった。僕はいまでもかれのことを忘れていない。それはかれが僕たちに傷を残したから。確かめたことはないけれど、神田だってきっと忘れはしないだろう。僕らは似たところが全くなかったけれど、ラビに関してだけ僕らは同じ気持ちを共有していた。壁の中で、僕らが信じられるのは自分とほかのふたりだけだった。あそこで僕らが得たものといえばそれだけだ。僕も、ラビも、神田もそれは同じだった。それなのに、気づくと僕らはふたりして取り残されていたのだった。

 ラビと神田は僕よりいくつか年上で、施設の生活も長かった。あのふたりがだれといて、どんな経緯で壁の中にやってきたのか僕は知らなかったし、聞くつもりもなかった。とにかく僕らは壁の内側で出会い、その中ではずっといっしょに生活していた。施設で生き延びる方法はふたつ。群れるか消えるか、しかしどちらかを実行してもたいていの子供は死んだ。空腹で、喧嘩で。壁の内側はいつでもだれもが殺気だって、食料のために争った。
 ラビはいつもどこからか食料を調達してきたが、それがだれのものでどこからなのか、僕は知らなかった。わかるような気もしたけれど、わかりたくはなかった。僕がいつでもかれから食料を受け取らないので、そのたびにラビは僕を哂った。頭をひとつなでて、「おまえってホントにバカさ、アレン」と。そして腹をすかせた僕の変わりに、僕の食料を守ってくれた。
 神田もいつも配給分以上の食料を持っていたが、それはかれを何人かで襲おうとしたあげくにかれが逆に奪い取った戦利品だった。面倒くさそうに、かれはそれを黙って食べた。
 僕らは壁の近くに寄り集まって座り、そこで喋り、小突きあって小さく笑った。きまぐれにじゃれあって、たまに欲望をうめるようなこともした。中ではそれ以上にすることがなく、知らない以上望むこともないのだった。けれど、僕たちはけして痛みを忘れなかった。壁のそとがわに世界があり、かつてはそこに住み、蔑まれ、いずれそこに還るのだと。僕らがほかの子供とちがったものがあるとすれば、あの痛みだったのだろう。それはじわりと骨に響いて、ときどきつよく外界を呼んだ。何度も、何度も。僕らは心の内側から声を聞いた。
 そして、5度目の暑い季節、もう気が狂うほど同じことをくりかえしたあとに、僕らはようやく外に出る計画を立て始めた。だれが言い出したのだったろう。けれど、だれもがおなじことを考えていた。僕が15だった夏。僕らは周到な計画を立て、現実に背を向ける瞬間をむかえた。

 そのときこそ、僕らは生きていたのだった。

(つづく)



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05/7/2