あのころ僕らはしあわせだった V




 「おまえはだれだ」と聞いたら、相手はいっしゅんだけ躊躇し、そしていたずらをたくらむ子供のように微笑んだ。ロザリナ・ミラー。彼女の黒い瞳がなにかに反射してきらりと光った。俺はその目に、何年か前に見たフランス人形を思い出した。にこりと微笑む口のかたちをそのままに、まぶたがぱちぱちと開くたぐいの金髪の人形だった。たしかあれは蒼い瞳だったろうか。持ち主はたいそう大切にしていたが、俺は気味が悪かった。ロザリナ。なんていう胡散臭い名前だ。俺は眉を寄せたのかもしれない。黒髪のロザリナ人形が、にこりと首をかしげて笑った。「あなたの名前は?」 俺は自分の名前を言って、彼女のうしろに控えるように立つラビを見た。ラビは俺の視線に気づいて、顔をあげた。その表情の意味を読み解こうと、俺は相手の顔をにらむように見つめていた。
「アレン。アレン・ウォーカー」
 俺のとなりにいた白髪の少年が、かたい表情のまま女に自分の名前を名乗った。ラビが視線をアレンにうつす。けっきょく、俺にはなにひとつわからなかった。無表情はなんの感情も伝えてはこなかった。ロザリナは自分がここへ忍び込んだ目的を空気みたいな声で話し、ラビは(さも納得したように)うなづき、そしてアレンは迷ったすえにくびを縦にふった。視線は俺へとうつされた。アレンが決断を迫るような目で俺を見る。灰褐色はまばたきひとつしなかった。ロザリナははじめ、俺がうなづくことをまったく疑っていないような顔をしていたが、俺があまりに長い間何もいわないので、しまいには始終はりつけていた笑顔をくずした。ほんのすこしの間だけ、彼女は裏切られたというように唇をかんだ。しかし、気づいてすぐにやめた。それはロザリナのしぐさではないからだ。俺は、そんなふうに上手くいかないことがあると、泣き言も言えずにただ唇を噛みしめる少女を知っていた。だがともあれ、それは『ロザリナ』ではない女のしぐさだった。
 俺がここでうなづけば、良くも悪くも歯車は動き出すのだとわかっていた。それがなんなのか、俺はよく知っているはずだった。俺はそのときが来たと知ったら、躊躇なく首をたてにふっただろう。けれど、そのとき俺が感じたのは、奇妙な、噛みあわない歯がゆさだった。しっくりこなかった。まるで偽物をつかまされたようで、それが俺に確証をあたえなかったのだ。俺はもう一度ラビを見た。ラビはさっきと同じように、まったく感情を見せずに俺を見ていた。その実、それは何かを訴えかけるようでもあった。
 この夜の出来事を、俺は何度も思い返して考えている。この馬鹿げた茶番劇のプロローグ。照明を落としたのがロザリナなら、幕を引っ張りあげたのは俺だった。俺は知っていた。この舞台は俺がうなづかないとはじまらない。うなづけばすべての仕掛けが動き出す・・。しまいに、俺はうなづいた。
 あのときは、それが俺の意思なのだと思ったが、いまではそれもよくわからない。もしかしたらラビの言ったとおり、俺もあの場所の沈黙に耐えられなかっただけなのかもしれない。俺たちはみんな、あのなかに入った者はだれだって、何かが動きはじめるのをただ待つしかすべがないのだ。あの場所。あの町。そしてあの国全体がそうだった。断ることなどできなかった。それにはあまりにも時間がたちすぎていたのだ。俺にも。ラビにも。墓地に入っていって死体のふりをしろと言われたって、そんなことをほんとうの死体になるまで続けることなんか、できやしないだろう。俺たちはロザリナのいう作戦とやらに手をかすことになった。かわりに、俺たちは彼女を迎えにくる仲間と共に国境側の警備をぬけられる。簡単な話だ。俺たちの5年、ラビの6年がそれで終わるのだと思ったら、思わず笑いがこみあげてきた。そうだ、俺は迷ってなどいられなかった。アレンがそとの世界を望むように、ラビが心底飽きあきしていたように、俺にもどうしてもやらなければならないことがあった。そのためになにもかも犠牲にするのだと決めた幼い日から、俺は今日までそのためだけに生きてきた。壁の中でも、そしてあそこを出てからもだ。俺は迷わなかった。あの、たった一度を覗いては。
 "俺たちの作戦"がくずれたのは、けっきょくのところ、あいつただひとりのせいだった。あいつさえ俺たちの前に現れなければ、万事はもっと間違いなく進んだはずだった。だが、俺はそれをだれにせめることも(あいつにさえ)できやしない。噛みあわない歯車を、それと知ってまわしたのはこの俺だ。そして、そんなことはあの場にいた、あいつ以外のだれもが知っていたのだから。

(つづく)



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05/7/18