あのころ僕らはしあわせだった U




 立て付けのわるい扉が、ノックもされずにきしんだ音をたててとつぜん開いた。アレンは気づいて、ペンおかずにそちらをふりかえる。
「おかえりなさい。・・・どうでした、この街は」
 相手の顔を見て、聞くまでもないことだと察しがついた。案の定、相手は何も言わずにアレンの前を横切ると、もっていた薄汚れた皮袋を床に投げ捨てた。もうずいぶんと年季が入り、ほつれた箇所もひとつやふたつではない。使うほうも乱暴なので、いままで壊れずにもっているのは単につくりが頑丈なのだろう。たぶん上質の革。絞り口の端に糸でロゴが縫い付けてある。もうよごれて見えないけれど。そこには忘れられない場所の名前が明記されているはずだった。アレンも同じものを持っている。そこに縫い取られていた、同じ名前はあそこを出たあとすぐに糸を抜いた。忘れたくて消したのに、いまでもそれは色濃く脳裏によみがえる。アレンはそこから目をはなし、どかりと部屋のすみに座り込んでうなだれる相手を見た。
「神田、」呼びかけて、苦笑する。「ねえ、寝るならなにか食べてからにしたら?」ややあって、「いらない」と返事があった。アレンはそっと立って、ぼろぼろの気のベットから毛布をひきはがし、座り込んで眠る神田に静かにかけた。束ねたままの長い黒髪はからからの土地で砂埃をかぶって汚れていた。きれいなのに。切る気がないくせに、そういうところに気が向かない。もっともかれのことだから、また寝るのも食べるのも無視して街中を歩き回っていたのだろう。姿が見えないとなると、いつもそうだった。あたらしい街に移るたびに、はじめの何日かはかれの不在が続く。そして戻ってきたと思ったらこれだ。さっきの反応からすると、また街を移ることになりそうだった。壁の外に出たときから、神田の興味はただある人を探すことだけだった。だれを探しているのか、探してどうするのか、アレンは知らなかった。それでも、かれがその人を見つけるまでは、まだアレンはかれのそばにいることができる。神田の不在はつらかった。滞在地をかえてはふらりと姿を消す神田が、アレンのところにもどってくるという保障はどこにもなかった。アレンにはもうだれもいない。神田以外には、もう執着するものがなにもなかった。あれだけ壁を出たがっていたのに、その向こうはなにもない空間だった。食べ物があっても腹がすかない。ベットがあっても眠れない。ラビが見たらわらうだろうか。それとも怒るだろうか。かれは、あんなに壁の外に出たがっていたのに、それがかなわなかったのだ。



 施設を抜け出すことは、やろうと思えばそんなに難しいことじゃないと僕らは知っていた。ここは外壁こそ刑務所のようにすごいけれど、実際はただの保護施設だ。警護官の目を盗んで壁を超えるのは、じつはそんなに大変じゃない。そうやって逃げ出そうとした人たちがいないわけじゃなかった。問題はその先だ。施設は町の中心に位置し、その町から確実に逃げおおせるためには国境側の出口を使うしかなかった。ほかの出口にたどり着くまでに、町の警備に気づかれて連れ戻される。連れ戻されるだけならまだマシだが、そうやって戻ってくるのはほんとうに少数だ。逃げられなかった人たちがどうなるのか、僕らはよく知っていた。かれらはもう、どこにも戻ることなんかできやしない。 ―この話を何年かあとに、町以外の人間に話したときとても驚かれた。町中の警備、脱走と射殺が日常茶飯事で、その町がそんな病的なやり方で治安を維持し続けたのだと。潔癖症が窓枠にたまった埃を嫌悪するように、そこには悪意にまで高められた完璧ともいえる体制があった。施設もそのひとつだったのだ。 ―もっとも、それに僕らが気づくのはそれから何年もあとの話だ。そのときは、ただ、なんとかして壁の外へ抜け出し、国境側の警備をぬけて町を出なければならなかった。そんなことが子供だけでできるはずがない。だれか壁のそとがわに協力者が必要だった。彼女とであったのはそんなときだ。そのときは、運命だと思えた。ツキは僕らに向いていると、本気で。ロザリナは僕らのまえに唐突にあらわれ、そして僕らをとりこにした。彼女の語る世界、けして忘れなかった外界の断片を突きつけられた僕らは、もう迷うことなどできなかった。
 ロザリナ・ミラー。いま考えれば、これはたぶん偽名だったのだろう。そのときは考えもしなかった。僕らが脱走計画を企て、行き詰って絶望しかけたその晩に、彼女は唐突にやってきたのだ。いままでだれもやらなかった方法で。・・つまり、彼女は自分から壁を越えて、この施設に忍び込んだのだった。
「いま、なんか聞こえんかった?」
 ラビが言ったのは、かれがどこかから調達してきた町の地図をなんどもなぞり、線を引き、消して、また書き直すということを30回もつづけたときだった。神田が眉をひそめてラビに目をやり、僕は消しかけた地図の線を追っていて、反応が少しおくれた。「女の声が、今」 ラビは言って、声のしたというほうを気になるようにふりかえった。神田が、フンと鼻で笑った。「おまえ、女の声がどんなもんだか知ってるのかよ」「ユウよりかは、知ってるさ」「へえ、それで、そいつはどんな声で啼いてたって?」 神田が馬鹿にして取り合おうとしないので、ラビは僕のほうを向いてたずねた。「なあ、アレンは聞こえんかった。女の声」
「さあ、僕は地図を見てたし。・・ねえ、それよりもこっちのルートをどう思います?工場の裏手を抜ける、」
 ラビはしばらく奥のほうを見つめていたが、やがてひとつ息を吐くと、とうとう立ち上がって歩き出した。「おい、今は警護の巡回時間だぞ」「そうですよ。キーガンはこのまえ新入りを殴り殺したばっかりなんだ」
 かれは僕らのことばにも何も言わず、ひらひらと手をふりかえして闇の中にとけるみたいに奥のほうへと歩いていった。そして、しばらくして黙り込んでいた僕らの前に戻ってきたかれは、にやにやしながら女の子を連れていたのだ。僕よりすこしだけ年上にみえた彼女は、黒髪で黒い瞳。暗やみでそうとわかったのは、僕らが神田の髪と目を見慣れていたからだった。彼女はラビに連れられて僕らのそばにやってくると、微笑んで「こんばんは」と一言言った。上質の砂糖みたいな声。僕らは唖然として、彼女を見た。神田も驚いていたが、僕は驚きながら、本物の女の子を見るのは何年ぶりなんだろうと、必死に外にいたころのことを考えていた。・・けっきょく、思い出せなかった。黒い手袋をとった彼女の真っ白な手に(闇の中で、それはまるでミルクみたいに真っ白だった)、その感触に、僕は目も心も奪われていた。神田だけは、差し出された手を取ろうとせず、最初の驚きのあとに冷静さをとりもどして彼女に強い視線を向けた。「だれだ、おまえ。なんでこんなところにいる?」
 僕ら以外のだれもがおびえるその視線に、けれど彼女はおびえなかった。ただ、すこし驚いたように目を瞬かせ、かれがその手をとらないとわかると黒い手袋をまたそっとはめた。彼女の後ろにいたラビが、「悪ぃな。こいつ、照れてるんさ」と、あわてて言った。「いいのよ、いいの。わかってるわ」 彼女は肩をすくめると、はじめとは少し違った微笑み方で神田を見た。しばらくかれを見つめ、そして今度は僕のことを。はじめは顔があつくてどきどきしていた僕は、彼女に見つめられるうちに次第に落ち着かなくなってきた。彼女の目はまるで、・・僕らをひとりひとり値踏みしているみたいだった。くさった林檎を見分けるみたいに。やがて彼女は僕らをじっくり見回すと、両手をぱちんと(手袋をしていたから、音はしなかったけれど) 顔の前で合わせて、いたずらを思いついた子供みたいな顔をした。そのときはとてもかわいらしく思えたけれど、今はもうそんなふうには思い出せない。子供の運命をあやつるリリス。狡猾な表情をかわいらしい微笑みにかえ、彼女は僕らを誘惑した。
「ね、あなたたち、ここから出たいんですってね」 彼女の声は、詩を読むみたいになめらかだった。神田がラビをじろりとにらみ、僕は彼女をじっとみつめた。
「あたしがあなたたちをここから出してあげるといったら、あなたたちもあたしに手をかしてくれるかしら?」

(つづく)



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05/7/7