永遠に静か




 馬車の中には木綿地を何枚かあわせたような布のカーテンが引かれていた。白くて厚く、光をさえぎるわけでもないが、とりあえず外から視界は遮断している。ラビが薄く目を開けると、目の前に腰掛けたアレンはその布のあいだから漏れた光のすじを指先でもてあそんでいた。内部のほこりが舞って白く光るのだ。座席に身体をうずめたまま、目だけあけて指先をそこにかざしては、すじをとらえて右手の指をこすりあわせていた。蜘蛛の糸みたいに細いものを掴もうとしているようだった。存在はあるのにつかめないのを不思議がり、いぶかしんでいるようにも見える。目はねむそうに細められていた。その目が窓のほうを向いているのをいいことに、ラビはしばらく何も言わずにアレンの横顔を観察した。
 馬車は田舎道で小石にまたがり、ときおりかたんと上下にゆれた。漏れる光もそのたびにゆれ、アレンの指にかかったりほどけたり、またかれの薄いまぶたをさしたりした。アレンがふわ、と小さくあくびをした。夏の夜の陽光。この国では真夜中でもまだ日が沈まない時期だった。馬車の中はちょうどよく眠りをさそうあたたかさだ。けれどアレンはひとつあくびをしただけで、またとろりとした目を指先に向けた。
 眠れないのか、それとも眠る気がないのだろうか。
 ラビもすでに覚醒していた。馬車が道に沿ってゆっくりと左にかたむく。光のすじもそれといっしょに移動した。ラビのほうへ。アレンはその光を眼で追って、ゆっくりと、ついにラビに視線を向けた。その目がはたと開かれる。驚いた表情のアレンは、す、と小さく音をたてて息を吸い込んだ。かれの指から光がほどける。ラビの心臓のあたりが、さわ、と小さくゆれた気がした。
 安堵からか、馬車が小石を踏んだからか。それともこれはなにかべつの感情だろうか。湖の薄い満ち干きのように、足元までやってきてするりと離れた。かれはそれを追わなかった。ふたたび顔をあげたときには、もう湖心は暗い水をたたえてしずまり、二度と震えることはないように思われた。
 ラビはにこりと笑顔をつくり、人差し指を自分の唇に押し当てた。アレンはそれを―ラビのその指先を見て、一瞬だけかれのとなり、反対の壁にあたまを押し付けて眠るリナリーをふりかえった。真夜中を過ぎていた。それにしては不自然だと感じる明るさとあたたかさに満ちていた。アレンはラビに視線を戻して唇を少しだけひらいた。
「・・・いつから?」
 その声はすこしだけ不満げに、最後だけかすれた。ラビは笑みを深めて、「ずーっと」 と口を動かした。目の前のかれが薄い眉根をよせて感情をあらわすのを期待して。けれどアレンは唇を引き結んで目をそらした。「アレン?」とラビはささやく。相手は一瞬視線をさまよわせたあと、ラビを正面にとらえて今度こそかれをにらんだ。「・・言ってくださいよ」 頬に熱があつまっている。「ひどいですよ、見てるなんて」
 心臓をぎゅっとつかまれたような衝動に、ラビは思わず口元をおおった。・・やばい。それは湖面をゆらす感情ではなかった。もっと急激に感情を押し上げるなにか。アレンが不思議そうなかおでラビを見ている。いますぐに抱きしめたかった。抱きしめて、そして・・―。
 かれはゆれる光のなかで、アレンの右手をものも言わずにとった。アレンが目を見開く。そのひとみを見て、ラビは自分がひどく真剣な表情をしていたことに気がついた。なに?と小さく問うアレンに、かれは口のはしをゆるりとあげた。空気がゆれる。ゆれたような、そんな気がした。けれどかれの心はおどろくほどに静まっている。ラビは握り締めた手の、爪の割れた指先に唇を押し当てた。指先が小さくふるえる。かれはちらりとアレンに微笑み、そして指の先がしめす空中。おそらくはもう何本もの糸がからまり、アレンをひきよせる指の先をとらえ、かちりと歯をかみ合わせた。
「プツン」
 ラビの口からもれた言葉の意味に相手は小さく首をかしげた。子供じみた独占欲。これはその証明だ。もういちどキスをした指先を開放すると、アレンはすばやく手をひっこめた。「なんなんです?」 照れたように、アレンが少しだけ語尾を強めた口調でラビに言う。ざわりとかれのなかに流れる感情が、目の前のその指を、人物ごと深く湖底に押し沈めた。それは夢想だ。湖はぱくりと口をあけ、波ひとつたてずにアレンを音もなく飲み込んでいく。ラビは手をのばして、光のもれるカーテンの隙間をてのひらでおおった。
「アレン、糸が切れた」

相手がちいさく息を呑んだ。



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05/6/21