アンナの埋葬




 後ろで汽車の汽笛が鳴って、ラビは革のベルトにひからびたひび割れの入った鞄を持ち上げた。出口のほうで手をふるリナリーに、自分も片手をあげて。うしろをふりかえると、後についてきたアレンも同じように手をあげた。蒸気のにおうプラットホームは、多くもないが少なくもない人でまばらに混雑していた。さっさと出てしまおうと歩き出したところに、ギギと動き出した汽車のきしむ音に混じって叫び声が聞こえた。ふたりして振り返る。しかしアレンのほうが一足早かった。ラビがふりかえったとき、すでにかれは黒い革鞄とゴーレムを残して人の波に向かって走っていた。呼び止めようとしたところで、悲鳴は伝染のように車両の前方からひろがって、人々は何事かとそちらから順にふりかえっているところだった。ラビも鞄を乱暴に置き捨ててあとを追った。利き手は武器をつかえている。
 けれど、その悲鳴は兵器ではなかった。ひとの間をぬうようにすすんでいくと、車両の先頭にぽっかりと空間がひらけていた。2列後ろの者は首を伸ばして覗き見るが、見た者はそろって顔をゆがめた。口元をおさえて走り去っていくものすら。その前方の空間で何人かがホームの下。線路の中を覗いている。しかしアレンはそこにはいなかった。すばやく走りよると、彼の白い頭が汽車の車輪の間に見えた。アレン、と名を呼ぶ。かれは顔をあげなかった。ただでさえ色素の薄い顔を蒼白にして、瞬きもせずに見つめていた。車輪の間を。彼の右手(イノセンスの埋め込まれていないほうの)―が血の色に染まっていた。ラビもそれを見た。覗き見て、貧血をおこす婦人や口元を押さえる人を途中でみてから、そんな気がしていた。「・・アレン」 もう一度呼ぶと、かれははたりと瞬いて、ラビのほうを見た。あ、と口をうごかしたが、ラビには言葉まで伝わらなかった。たぶん、何を言ったのでもなかったのだろう。彼はとつぜん気づいたように動き始めた。「この人を、」
 そこで、線路に下りていた何人かがあわてて車輪の下に頭をつっこんだ。アレンもいっしょに手伝ってそれを引っ張り出そうとしていた。ラビは息を吐いてその場を去った。人数は足りているし問題はないだろうと、アレンも、先に、と頭を上げて言った。彼の顔は相変わらず青白かったが、さっきのように止まってはいなかった。立ち去る彼のうしろから男たちの話し声が聞こえていた。機関士がはやくしろと怒鳴っている。―早くそいつをどけてくれ、もう何分も遅れてんだ!だめだ、肘がひっかかってやがる。車体を後ろに下げろ、胴体が千切れるぞ!ばかやろう、そんなことしたら顔がつぶれちまう!アレンの声も聞こえた。「まって、僕がやってみますから、そんなにひっぱらないで」
 前方の観客は、片づけがはじまって興味を失ったようだった。入れ替わりに後ろのほうにいた何人かが、ひっぱりだされるそれを見ようと前に押してくる。さっきの場所までもどると、もう何事もなかったかのように人間は散っていた。投げ捨てたトランクを探したが見当たらない。ゴーレムはいた。ティムキャンピーは荷物番にはなれなかったらしい。彼が眉を寄せてゴーレムをにらむと、後ろから肩をたたかれた。
「ラビ、何しているのよ」
 リナリーが3人分の荷物を両手に抱えている。ばたりと羽を動かして、ゴーレムが彼女の頭にすりついた。どさりと鞄を地面に下ろして。「ふたりとも反対側に走っていくんだもの。・・前のほうでなにかあったの?」
 彼女はまさか、という顔をしたが、ラビはそれに首を振った。「なんでもねーさ。アレンもすぐ来るよ」 そう、と彼女は安心したように肩を落としたが、それからアレンが戻ってくるまで何度か人ごみを振り返った。「呼びに行ったほうがよくはない?」 彼女はこの距離でも、アレンが迷子になる心配をしていた。ラビはそれに笑ったが、なぜか内心落ち着かない気持ちだった。胸がざわついていた。過保護なリナリーに笑って、待っていようと言った。けれど、本心はアレンの蒼白な表情を見せたくなかった。あれは、人形のように冷たくて蝋でできたような白さだった。(まるで心が入っていないように)
 やがてコートを血と泥だらけにしたアレンは戻ってきてリナリーを驚かせたが、それはもういつものふやけたような笑みだった。すこしこわばってはいたけれど。どうしたのと聞いたリナリーに、彼は「なんでもないです」とすばやく答えた。「なんでもないはずがないでしょう?」リナリーが怒ったようにつめよると、ちょうどよくごまかすように汽笛が鳴った。20分遅れた汽車はプラットホームをガタガタとすべりだし、彼らは蒸気でけむるなかむせながら駅を出た。
 駅を出たところで、ひとりの男がマントをぐしゃぐしゃにわきに抱えて走っていくのが見えた。顔は蒼白。目だけがなにかに訴えるように赤く腫れていた。リナリーは何事かと彼を振りかえり、アレンは沈んだ表情でゆっくりと彼の走り去ったほうをみた。ラビは空を仰いだ。なんとなく。やけにすこんとひらけていて、まるで今逝ったひとりの女性を持っていくために、通り道を空けたようだった。そんなことを、意味もなく思って自分の想像力に嫌気がさした。

(アンナ・カレーニナを観て)



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05/6/16