パラサイト









-1-
 ふたつの触手はゆっくりとかおれの首に触れた。もはやそれは人のかたちをなしてはいないのに、手であったところは生温かく、脈はどくどくと鼓動をかさねた。
「かれを助けたいと思いますか?」
 かれとはだれのことなんだと、聞きたかったがもう声が出せなかった。相手は自分の言った矛盾に気づくことはなく、すがりつくようにおれの首を絞めつづけている。いやな夢だった。「僕はそんなことを望んでいない」
 悪夢は現実とよく似ている。それは現実が悪夢をなぞりつづけるからだ。はじまりもおわりもない。すべてがぐるりと巡っていて、そこには嘘も本当も存在しない。

「おまえ、腕はどうしたんさ」
「どうしても見つからないんです」
「うそつけ」
 あ、声が出ている、と思ったら、とたんにそれが自分のものかどうか心配になってきた。





「どろどろと溶けていく夢を見るんだ」
と相手は言う。ベットはすっかり冷えきっていた。
「自分の腕がなくなっていく夢を見るよ」
 そして、ごそごそとシーツにもぐりながら、眠そうな声で相手はぼそりと言い足した。
「きみも見るでしょう」
 質問か確認かわからないようなことばに、おれは返事をしそこねた。黙ったままシーツのかたまりを見つめていると、いつしかそれはゆっくりとため息をつくように眠りにおちた。
「おれは、」
 返事はだれもきいていなかったので、それ以上、声に出す必要はなかった。

 本部から連絡が届いたのは、アレン・ウォーカーに最後に会ってから2週間もたったころだった。そのあいだおれがいたのは電波の届かない僻地の谷で、たぶん何度もくりかえしたであろうその連絡を、交換手は待ちかねたようにひとくちで言い終えた。
「帰るさ、できるだけはやく、」
 しばらくの沈黙のあと、重い息を吐きながらおれは答えた。「彼女にそういってくれ」
 それは正直言って、いままで彼女がおれに頼んだことでは、もっともやっかいで面倒な仕事だった。いつもは自分で受話器をとる彼女が、わざわざ交換手をつかったことも気に食わなかった。
「そんなのはおれが聞きたい・・・」
 アレン・ウォーカーの居所をたずねられた。聞けば、かれが失踪してから、もうすぐ半月がすぎようとしていた。








-2-
 壁にある灰色のシミがだんだんこちらに近づいてきて、そのうちわたしを飲みこんでしまう。わたしは壁に耳をつけて、ぞわぞわと近づく音をきいている。昨日はゆびの先を食ったけれど、明日は頭を飲みこむわ。それが恐ろしくて(けれどうれしくて)、わたしは最近、壁に耳をつけたまま眠っている。





 ひと月まえのはなしだけれど、アレン・ウォーカーが失踪した。ふわりと飛んで消えたみたいに空っぽになってしまった部屋を見て、だれもわけがわからなかった。かれの寝ていたはずのベットはシーツが取り払われていたし、かれの少ない持ち物はひとつも残っていなかった。
 意味がわからなかった。
 そこにはおよそ生活臭というものがなく、殉職した人の空になった部屋をながめるのともどこか感じが違っていた。
「・・・・どうしたんだ、そんなところで」
 わたしはどうすればいいのかわからず、かれの部屋の扉に背をあずけて座り込んでいた。なにか考えようとしたけれど、どうもあたまが働かなかった。しばらくそうして座っていると、ちょうどリーバー班長がそのまえを通りかかり、なんだか間抜けな声をだした。わたしはぼんやりと顔をあげて、たぶん途方にくれたようにかれに答えた。
「失踪事件」
「・・・・は?」
 立ち上がって、自分のうしろにある部屋の扉をぐいと開いた。
「アレン・ウォーカーが失踪したわ。兄さんに言わなくては」

 空っぽの部屋は何度のぞいても空のままで、かれの座っていた椅子にすらほこりがかぶっているような気がした。そもそも、かれはあの椅子に座ったことがあったのだろうか。あのベットに。あの壁の絵に触れていたことは?
 見た光景がひとごとのようによみがえっては消えてゆき、むかし読んだ絵本を思いかえしている気分だった。いまここにいない人を思い出すのが、こんなにむずかしいはずはないのに。
 リーバーはわたしが開いた扉の向こうをみて、同じようにおどろいたようだった。それを見て、わたしはすこしだけ安堵した。(自分のほかにも、かれを覚えている人がいて、そのことにひどく安心したのだった)
 いつでもいなくなれる準備をしていたのだと思った。かれは、だれにも見つからずに出て行くことを決めていたのにちがいない。
 そんなにも周到に用意をしていたくせに、どうしてこんなにみじめな気持ちにさせるのだろう。かれはいつだって大事なことを忘れているのだ。わたしのことを。

 教団を出る直前にかれが聞いたのは、任務中のブックマンの居場所だった。そのことはわたしだけしか知らない。だからそれが失踪じゃないことを知っていたのもわたしだけだった。
 そうやってかれは、わたしの(わたしたちの)まえから逃亡した。








-0-
 戦闘であたまとまぶたを怪我してしまった。命があるだけで幸運な戦闘だったので、顔に傷がつくぐらいどうってことはなかった。
「だからそんなに驚かないで」
「はあ、・・・でも」
 話していると、あれ、と向こうからラビがのぞきこんだ。
「おれとおそろいだな、リナリー」
「なんかいやだわ、そう言われると」
「えー」
「アレンくんとおそろいなのがうれしかったのに」
 そういうと、かれは笑っていいのか決めかねたような表情で、「僕はうれしくない」とぼそりと言った。
 軍医にもう右目はつかいものにならないだろうと言われた。命があるのもうれしかったけれど、わたしはかれのそのことばが、何よりもうれしかったのだ。

「痛い?」
「痛くないよ」








-3-
 火はなかなかつかなかった。火種などないうえに、どちらもつかれきっていたからだ。ライターがどれも油切れだとわかると、相手はどこからかしめったマッチをさしだして、自分はコートの中にうずくまった。雪がふる季節ではないが、夜の雨がもたらす冷気は確実に体温をうばっていった。
「お、ついた」
 おれの言葉をきいて、彼女はそこらに転がしていた報告書の束をよこした。厚いわりにまったく役にたたなかった紙の束を、おれたちはびりびりと躊躇なくやぶいて焼いた。ようやく枝に火がうつると、いままで感覚のなかった指先が傷んだので、おれはあわてて焦げかけた指を火からはなした。水ぶくれなど気にしてもしようがないほど、両手はひどく傷ついていた。
「傷だらけね」
「ふたりともな」
 リナリー・リーはやぶけた唇で笑おうとして、すこしだけ頬をうごかした。
「ねえ、ブックマン」
「なんだい」
「わたしたち、とても道に迷ってしまった。だれかむかえに来るかしら、」
 おれは彼女の焼けた顔を見ながら、「生きていたら」と言い返した。そうね、と彼女がささやく。岩場のまわりでは豪雨が終末にむかってうねっていた。あの大量の兵器と向き合って、もはやだれが仲間かもわからないような泥にまみれた戦場のなかをおれたちは駆けてきていた。味方がすがってきたとしても、自分にはわからなかった。おれたちは"目"をなくしてしまっていたし、自分にふれたものはだれであれ、殴り倒しながら進んできたからだ。
 半年前、総攻撃をしかけた兵器のまえに黒の教団は半壊した。塔はもうかなりまえ、すでにくずれてしまったので、生き残った団員はアジアの地下に最後の砦を築いていた。
「報告書なんて、あってもなくてもおなじだな」
「そんなことないわ。こうして役に立っている」
「は、」
 羽のとれたゴーレムをいじりながら、リナリーは大きいとはいえない炎をみつめていた。左手を機械にのせながら、右手は動くようすがない。地面にだらりとおかれた手のひらはつぶれたように平たかったが、彼女は感じていないようだった。神経が切れてしまったのなら、もう動かせないかもしれない。ちらりとそんなことを考えたが、この区域から生きて出られるかもわからないのに、腕のことを気にするなんておかしなはなしだった。(たとえ生きて出られたとしても、そのさきはどうかわからない)
 おれはふいに顔をあげた彼女の、傷ついた右目と目があった。ずっと前の海で瞳をを切りつけてから、少しずつその色がぬけ落ちていった灰色の右目は、そこにあるだけで役には立たない。まぶたについた傷跡を見て、そのとき彼女は悲しむふうもなく『おそろいね』とかれに言った。『あなたのように、役に立ちはしないけれど』
 その男は消息をたったまま、いまだになんの手がかりも見つかっていない。

「わたしにかれの面影を見る?」
 その言葉に、ふとおれはわれに返ってようやくしっかりとリナリーをみつめた。彼女はいつのまにかゴーレムをいじるのをやめ、こちらをずっとうかがっていた。「かれのことを思い出す?」
「熱があるんじゃねえのか」
 質問のことばを無視して、おれはリナリーの額に手のひらをあてた。
「さっきから震えてるし。化膿してんなら、今のうちに手当てした方がいいさ」
「あなた、わたしといっしょのときはいつでもこの右目を見てる」
 彼女は拒絶をあらわにしながら、動くほうの手でおれの手をつかんだ。片腕もうごかないくせに、今ここで最後のなかまを罵ろうとする彼女が理解できなかった。リナリーがアレンを好きなのは知っていたが、それはもう5年もまえのはなしだ。
「そっちの腕見せろよ。つぶれてるのに気づいてないのか」
「いまさら腕なんてどうでもいいのよ」
「じゃああいつなんてもっとどうでもいいだろ」
 思わず手をはらいのけると、思いのほか彼女が顔をゆがめるので、おれはあわてて肩をつかんだ。「ばか、痛いならそういえよ」
 もういちど腕をとると、やぶけた袖の下でもうほとんど折れかけていた。おれはため息をつきながら、まだ焼けていない枝をとってその腕に巻きつけた。黙ったままの彼女に右手も見せろというと、もうなにも感じないとつぶやいた。
「腕がなくなってしまったわね」
「腕、が」
 そのときおれはとても奇妙な感覚を味わった。空間が割れるような、まわりがゆがむような違和感だ。おれは怒っているのも忘れてリナリーを見つめ、彼女はいぶかしんでおれを見上げた。
「ブックマン?」

『腕はどうしたんだ』 
『なくしてしまった』

 なくなるのは彼女の腕なのに、おれは彼女の言葉になぜかひどくうろたえた。あわてて自分の腕を見たが、まだしっかりとついている。何度か名前をよばれたあと、やっと腕から目をはなすことができた。
「ブックマン」
「ああ、」
「あなたが殺したの?」
 それはあまりに唐突な質問だった。
「だれを」
 彼女の灰色の目を見ながら、おれはまた、ぐらりとまわりがゆがんだような感覚におそわれた。
「アレンくんは、あのときあなたに会っていたわ」
「言っただろ、おれだって、あいつがどこに行ったか知らねえんさ」
 まるで感覚が狂っている。見えないものが見えている。眼帯の裏が。
 目が開いていた。
「うそ」
「おれが殺したなんて」
 そんなことがあるはずがない。あたまががんがんした。おれはあのとき確かにアレンとともにいたが、起きたらそこにはもうだれもいなかったのだ。荷物すら。
 どうして目が。
「どうして殺すんだ。あいつは仲間だろうが」
「ちがうわ。かれは仲間じゃなかった」
 リナリーはいいながら、おれの首に手をあてた。麻酔でも打たれたように、おれは身動きがとれなかった。動かないと言った右手をうごかして、彼女はおれの首をしめた。彼女は腕を潰してはいなかったのだ。彼女は泣きながらおれに言った。

「かれがアクマになりかけていることは、エクソシストはみんな知ってた。かれがかれの呪いに食われ、最後の自我をなくしたときに、かれを壊す算段はできていた。
 あなたは知らなかったでしょう、わたしも知らないはずだった。わたしたちにだけ知らされなかった。・・・・・でも、わたしたちが気がつかないはずはないじゃない」

 現実は悪夢を追っていく。悲鳴のようにかすれた声で、彼女は狂ったように泣いていた。
「どうして殺したの、かれは助けをもとめたのに」
 ちがう。あいつはもとめなかった。
「わたしじゃなくて、あなたのところへ行ったのに」
 そうだ。けれどそれはあいつがひとりじゃ壊せなかったからだ。知ってたら殺していた。あいつが・・・、
 あのひとが巧妙だったから、かれは殺すことができなかった。
 腕はまだ残っているか。
 もうどこにも感覚がなかった。
 目が開いているのだ。
「わたしならかれを助けることができたのに」
 僕はそんなことを望んでいないんだ。どこからかなつかしい声が聞こえ、どこまでも暗いところを落ちていく感覚をあじわった。すべてがわかったと思う瞬間はいつでもほんの一瞬だ。両手がもう溶けてしまう。
 この身体もけっきょく耐え切ることができなかった。
「どうしてよ」
 ちがうんだ。おれはとっくに殺されている。
 赤い火のうつろうなかで、彼女の悲鳴と、狂ったような雨音を聞いた。








-4-
 足音がしたので顔をあげた。雨音はまだつづいていたが、光がさしているので朝だとわかった。目の前でとまった両足は、消えてしまった焚き火を踏みつけて立っていた。
「ブックマン」
 おどろいたように相手が言う。ひさしぶりの声だった。
「これはいったい、」
 神田は名前を呼んだそのひとが動かないのを確認して、はじめてこちらをふりむき、目があったとたんに続けようとした言葉をうしなった。
「リ、」
「心配いりません」
 僕のこえに、相手はこくりと息を呑んだ。
「かれが語るべき未来はたぶんもう訪れない。多くの人が考えているのと同じように、世界はいちどさら地になってしまうでしょう」
「だれだ、おまえ」
「神田、きみが来るとは思わなかった」
「おまえ、その話しかた・・・・・アレン・ウォーカーか」
「かれはきみのことが嫌いだったようですけど、僕はそうでもなかったですよ」
 相手の眼光がするどく僕の瞳をさした。
「そういえば、かれを殺す役目をあずかっていたのはきみでしたね」
「ひとごとのような話しかただな」
 神田は後ずさりながら、腰にさしたぼろぼろの日本刀に手をかけた。そしてふいに気づいたように、僕のすがたをじっと見つめた。さっきから右目中のグラスでは、いくつもの目玉がうごめいている。
「ウォーカー、」
 かれがぼそりとつぶやいた声に、僕はすこしだけ微笑んだ。
「どこから出やがった。その身体はリナリーのものだ」
「けれど彼女は受け入れた」
「そいつもか。ブックマンの目にも、そうやって寄生したのか!」
 神田は声を荒げて言った。
「ああ。でも僕は気がつかなかった。アレン・ウォーカーは最後の自我で僕に罠をはったんだ」
 でなければ、こんなに時間がかかることはなかっただろう。
 かれはブックマンの右目が封じられていることを知っていたので、万が一かれが僕を殺しそこなったときにも、寄生後に僕が出てくることはできないだろうとかんがえた。
 ずいぶんと長い時間がかかってしまった。アレン・ウォーカーは正式な寄生主である僕とあまりに深く溶けあっているので、じつはもう僕にもかれにも、どちらが出ているかわからないのだ。僕のほうが殺したいという欲求が強く、かれのほうが生かしたいと思う欲求が強い。僕はかれの左目の中で確実に力をたくわえていたので、自我を勝ちとる準備はできていた。
 ところがもうすこしというところで異変に気づいた。人間の身体は弱い。かれはかなり長くもったが、もう身体がアクマに近づくのをとめることができなかった。その場に留まっていればいずれ身体のほうが先に侵され、両方の自我をなくして神田に殺されていただろう。
「おれはやっと役目を果たせるわけか」
「それはわからない。僕にもいまだにこれが誰の自我なのかわからないのだもの」
「なんだと」

 寄生の根はくりかえすたびに強くなり、多くの自我を巻きこんで増殖する。どこからがはじまりで、どこがおわりなのか。これはだれの計算なのか。あの夢はだれの夢だったのか。

「こうやっておれが語っていることが、ほら、一番の謎だろう? 敵に向かって真実を語るなんて馬鹿だって思わないか?」
「ひとつたしかに言えることは、わたしが自分では死ねないということよ」
「殺し合いはできないんだ」
「ここに僕がいる意思が、だれのものかはわからない」
「マナ・ウォーカーか」
「アレンなのか」
「ブックマンか」




「それともリナリー・リーなのか」




「壁にある灰色のシミが、とうとうわたしを飲み込んだ。
 わたしはそれを待っていたの。壁にじっと耳をすませて
 かれの来るのを聞いていた」
 悪夢は現実とよく似ている。









-1-
 とつぜんの連絡に戸惑ったが、その声をうたがう必要はどこにもなかった。アレンは任務で近くの町までやってきたのだといい、おれの仕事を手伝ってから、ふたりでいっしょに本部へ戻ろうと言ってきた。
「ああ、ちょうどよかった。これから行くところはそうとうな山奥なんで、ティムがいてくれると助かるよ。こっちのじゃあ、電波がとどくか微妙なんさ」
「そうですか」
「それにしてもめずらしいな。おまえがおれを手伝うなんて」
「なんですかその言いぐさ」
「リナリーにちゃんと言った?」
「ああ・・・・じつは、まだ」
「言っとけよ。じゃないとおれが殺される」
「ねえ、ブックマン」
「ん」
「リナリーの怪我は、もうもとには戻らないのかな」
 アレンの思いつめた声に、おれはため息をつきながらこたえた。
「あいつがあたまを怪我したのはおまえのせいじゃないし、おまえに執着するのだっておまえのせいじゃないさ。あいつはもうずっとぼろぼろだったんだ。精神に寄生した悪夢にうなされ続けても、おれたちにはどうすることもできないよ」
「・・・・・・・今日の夜にはそっちにつくよ」
「ああ、まってる」
 そして回線はぶつりと途切れた。







※ ここでのパラサイトはアレンの左眼の呪いのことで、かれの寄生型イノセンスは根本的に関係ありません。
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06/7/10