リボンと少年






 青白いこどもに蛇がまきついているのが見えた。赤くちろりと舌を出して、いまにもかれを飲みこむところ。ばっくん、ばり、むしゃ。
 蛇は食事のとき、食べ物を噛み砕くのだったっけ。たしか丸呑みするんじゃなかったろうか。
 でも冷静に考えてみれば、子供の頭は蛇には大きすぎるのだし、あのかわいらしいといえるほどの、ロープともリボンとも見紛う温厚そうな蛇が食べるのならば、噛み砕かないわけにはいかないんだろう。
 あのこどもの透きとおるように青白い頬が、砂糖菓子のようにぼろぼろくずれていくのがみえた。頭蓋骨の中からは蛇の舌。ぎょろりと見えるのはさっきのあの子のきれいな瞳。







「へんなものが見えるんです」
 村の学校に通いはじめた7歳の春に、かれはまずそのことを牧師に言った。村でたったひとりの牧師でたったひとりの先生は、ひととおりかれの話を聞いたあと、いつもの笑顔で「もう二度とそんなことを口にしてはいけません」と言った。
「そんなおそろしいことを口にしてはいけません。蛇だかイタチだか知りませんが・・」
「へびもイタチもいます。先生の首にはまっしろいトカゲがまきついてますよ」
 すると先生は顔をトカゲのように真っ白にして、自分の首を一生懸命さすったのだった。
「だいじょうぶです。先生はおこないがいいので、トカゲは真っ白だしとてもやさしそうです」
 先生とおなじです、とかれはたいへんな褒め言葉のつもりで口にしたのに、先生はとたんに顔を真っ赤にして口をぱくぱく動かした。すると今度は、トカゲが先生の首の色にあわせて真っ赤に染まるので、ああ、これはトカゲではなくてカメレオンだったんだな、とかれは思った。

「変なものが見えるんです」
 街の上級学校に通いはじめると、かれは美術を受け持っていたエドワードなんとかという先生にそのことを話してみた。牧師先生に言われて以来、かたくその約束を守りつづけた彼だったが、エド先生の描く絵には、どうもかれが見ているのとおなじ感じのものが描かれてある気がするのだった。それはどんな感じかというと、まずエド先生の首に巻きついた黄土色とパステルピンクのハクビシンを見て、そのあと先生の見本の絵を見ると、ちょうど世界がつながっているような気がするという感じだった。正直、だれでもいいからその変なものを肯定してほしかったのだった。
 ハクビシンは舌なめずりをしながら先生の髭をむしゃむしゃ食い、かれは毛ばかり食う変な動物を横目に先生と話しをした。
「先生にも見えますか。僕は異常でしょうか」
 絵を描きなさい、と先生はおっしゃった。それだけだった。けっきょく、先生にあれらが見えたのかどうかわからなかったが、描きはじめた絵はほめられた。


「変なもんかくね」
 そいつらの絵を描き始めて5年たっていた。絵はよく売れるわけではなかったが、一部のマニアックなファンが馬鹿のような値段で買ってくれていたので、食うにはまったくこまらなかった。それに、描いているかれ自身はあるものをそのまま写し取っているだけなので、特別なモデルも必要ない。余った金で旅行ができるようになり、やがて街のボロアパートを引き払って、画材と身の回りのものをスーツケースに詰めた。旅をしてみてわかったのだが、かれは定住にはあまり向かない性質なのだ。あの管理人の肩に乗った、黒い狐にも見飽きていた。
 そしてその青年がかれに声をかけてきたのは、そんなスケッチ旅行も半年をすぎたころだった。かれが描いていたのはりんご畑に群がる巨大芋虫の群れ。食い尽くされたりんごと農家は芋虫が這うたびにねばねばとした体液で濡れた。かれはそれを、少しはなれた道の反対側から眺めていた。
 声をかけられてかれは顔をあげ、相手がいつどこからあらわれたのかと考えた。男は顔にかかる長い赤毛をかきあげて、片目でかれのスケッチブックをのぞいている。緑色の左目に虹彩、右目は穴のような眼帯で覆われていた。どこかで見たことがあるような気もしたが、それは服のせいだとすぐに気がついた。ぬめる黒のコートに、銀色の見るからに高価そうな釦がついている。肩に十字、胸に薔薇。かれはそれに見覚えがあったのだ。
 木炭で描かれた芋虫農家を興味深そうに眺めていた男は、やがて顔をあげると道の向こうをじっとみつめた。芋虫が這いまわり、農家は崩壊寸前だ。けれどかれは、それがかれにしか見えない幻覚だとわかっていたのであわてたりはしなかった。
 芋虫の子供が足元にやってきて、かれの革靴の先をしゃぶる。かれは新しいページをめくると、男の存在をわすれてしばらくのあいだ足元の芋虫を描いた。ひとつ描きあがるころには、芋虫はかれの足を食って二倍にふくれあがっていた。満足そうに身体をゆらして、家族のもとへかえってゆく。骨ばかりになった足を、かれはしばらくさすっていた。痛いのか熱いのか、よくわからない。ふいに手がのびてきて、肉のこびりついたかれの骨のさきにふれた。しびれるような傷みがつきぬけ、かれは思わず息をとめて目をつむった。けれどそれは一瞬のできごとで、目をあけると足はもとに戻っていた。
「あれが見えるの?」
 かれはかたわらの男に聞いた。いつの間にか男は身体よりもでかい槌を持っている。目は合体する芋虫の群れへ。ああ、あれはもう芋虫ではないのかも。つがいどうしがつがい、群れ中が交尾している。もうあれはひとつの身体だ。体液が流れ落ち、耳を塞ぎたい咆哮が大気をうならせる。
「あれが見える?」
「いいや、ぜんぜん」
 男は答え、おもむろに槌をふるった。空気が割れ、瞬きの間に農家が炎につつまれる。火の粉がかれの足にもかかった。ちりちりと燃える火を眺めていると、男ははじめて驚いたように声をあげた。
「ばか!そいつは幻覚じゃねえさ!」
 たしかに熱い。かれはあわてて火をはらって、しめった土を焦げ痕にかけた。となりで男が笑う声が聞こえ、かれもひさしぶりに声をあげて笑った。道の向こうからどんどん火の粉が飛んでくるので、かれらは走ってその場所をはなれた。丘をひとつこえたところで、男がかれの空の手に気づいて声をかけた。
「おい、おまえ。スケッチブックは?」
 かれはそこではじめて気がついて後ろをふりかえった。さっきの場所は乾いた草だけがちりちりと燃え、今すぐ戻れば間に合うのかもしれなかったが、なぜかかれはそうする気にはなれなかった。
「いいの、あれ」
「うん、いいよ。とっておきたいほど趣味のいいものじゃない」
「たしかに」
 男は笑った。笑うと思ったよりも幼くみえる。おなじくらいの歳かとおもったが、実はもうすこし下なのかもしれなかった。農家と反対の方角に歩きはじめた男のあとをついていく。名前は、とかれは声をかけようとして、口をひらいた。
『きみの、』
「え」
 相手がふりかえろうとする瞬間、かれは男の首にまきつくいくつもの管を見た。口から出た声が、自分のものではない気がしたが、その低くうなるような音はかれが発した以外に考えられない。どこか遠くから、悲鳴のような声があがった。
「ラビ!!」
 ラビ、と呼ばれた男ははっとかれの方をふりかえり、愕然として目を見開いた。緑色の水晶体のなかにかれのすがたが映っていたが、それに絶叫する前に、かれはなにかにはね飛ばされた。ざりざりと裂ける音。しかし足が裂けたのか手が裂けたのかわからない。変に折れ曲がった首をかたむけると、たぶんラビのことを呼んだ白い男が自分のことを見下ろしていた。ああ、とかれは声をあげる。かれは男を知っていた。
『僕、きみを知っている』
 しかし男はそのことばをさえぎるように、かれの喉にするどい指先を突きたてた。








 突きたてたところから流れ出た体液で、アレンの足元はどろどろと気持ちの悪い色に染まった。かれは吐きそうになるのをこらえながら、アクマの腕と足をひとつずつ切り落とした。破壊したと思っても腕だけで動くアクマもいる。しまいにかれは、びっくりしたように突っ立っているかたわらの男に声をかけた。
「面倒だから焼いたほうがいいかも」
 少し肩をすくめると、男は巨大化した槌をふるった。芋虫が合体したような気味の悪い化け物が、一瞬にして赤い炎につつまれる。アレンはふかく息をついて、燃える芋虫をながめていた。
「びっくりしたー。どっから出てきたんさ、おまえ」
「びっくりしたのはこっちですよ。相変わらずぬけてるんだから、ブックマンは」
「思わず名前だったもんな」
「うるさいな、やっと認めてもらえたばっかりなくせに」
 皮肉ったつもりなのに、ブックマンはあいかわらずへらへらと笑っていた。どうやらかれがあわてて前の名前を出してしまったのがおかしいらしい。死にそうなところだったのに。アレンは相手のあいかわらずの能天気に空を仰いだ。間に合ったからよかったけど。
 ニースで任務にあたっていたアレンは、本部に戻らずにパリ郊外でブックマンとともにアクマを探すように指示をうけた。最近パリ郊外の農村では、蛇やイタチが異形のすがたで人を食い尽くすという笑えない事件が相次いでいた。それ自体はアクマではなく、別の本体が人の中に潜伏していると報告にはあった。
「電波がわるくてさがすのに3日もかかるし、おまけにやっと見つけたと思ったら食われかけてるし」
「しばらく尾行してたんだけど、ただの絵描きに見えたからさ」
「ただの絵描きがあんなもの見えるわけないでしょう。あれが見てたのはぐちゃぐちゃにからまった魂ですよ」
 言ってからアレンはあのおぞましい姿を思い出して口元をおさえた。魂と魂がぐちゃぐちゃにからみあい、入るべき身体をとりあっている。あんな気持ちの悪いセックスはみたことがなかった。せりあがってきた胃液でのどの奥が苦い。
「ああ、やっぱり見えたんだな」
 ブックマンはあおい顔をしてうずくまるアレンの頭を、なぐさめるようにかきまわした。
「あいつにも見えてたんだ、おなじものが」
「だから油断したんですか」
「さあな」
「僕に似ていたから? そんなもの、いちばん信用ならないのに」
 ブックマンはそれには答えずに、丘をおりてさっきあのアクマが絵を描いていた場所まで歩いていった。木の柵が少し燃えていたが、もうほとんどが鎮火している。そこで灰と土にまみれていた古いスケッチブックを、かれはそっとひろいあげた。
 芋虫の農家、食われる足。あの男は自分のことをアクマだとはわかっていなかった。人の中で皮とともに成長し、アクマにつながれた魂を幻覚だと思って描き続けていた。想像の産物を現実化できる能力も、自分がそれをしていることすらわかっていなかったにちがいない。
 スケッチブックをめくっていくと、ページいっぱいに描かれたたくさんの人物デッサンのなかにそれを見つけて、ブックマンは息をのんだ。日付は4年前のものだ。描かれているのは頭を食われた少年の絵。頬に残る傷はまぎれもなくアレンのものだった。ではその目玉にはりついている細い蛇は、かれの義父なのだろうか。
 ブックマンはそのページを破りかけ、途中で気が変わってスケッチブックごと燃えている枯れ草のなかに投げた。ふっと短く息をつき、丘のうえでげえげえ喉をならしているアレンをふりかえって苦笑する。手をふると、かれはうんざりしたようにこちらを向いて手をふりかえした。一瞬、そこに蛇がくっついていた気がして、ブックマンは小さく頭をふる。たとえあの蛇がまだアレンの頭にはりついていたとしても、もうそれを確かめられる人はどこにもいないのだと思った。







 今日、街をあるいていたら、透けるように白い顔、銀の髪をした少年が頭に蛇をまきつけているのを見た。それ自体はそんなにめずらしいことではなかったのだが、その少年は自分の頭を食う蛇を、とても大事そうに目玉のなかに飼っているのだ。かれは持っていたスケッチブックに、少年を書き写した。蛇は美味そうに少年を食い、少年は食われながらも楽しそうに笑う。
 ふと、少年がかれに気がつき歩みをとめた。むき出しの目玉の瞳孔がゆっくり開き、かれの顔を見つめてくる。かれらはお互いにむきあって、鏡のように立っていた。かれにはわかる。少年はかれと同じものを見ているのだ。ほかの人には気づけない裏側。けれどそれが本当の、食い尽くされ血と肉の飛び散る世界を。
 かれらはしばらくのあいだ見つめあっていたが、やがて少年のほうが、はじかれるように顔を背けた。走り去った少年の背に、かれは語りかける。
 ねえ、きみ。きみも気づいているだろう。僕らはお互いにこの世界の本当を知りながら、そこからはじかれつづけている。もしも受け入れられたとしても、やさしい世界はいつか僕らを殺すだろう。きれいな世界に住むあの人たちは、このグロテスクな世界を受け入れる僕たちを、許せないにちがいない。

 喉に爪をつきたてたかつての少年を見て、かれはうっすらと微笑んだ。

 きみはまだそちら側にいるの? けれどきみの頭の蛇は、もうきみ自身と同化しているよ。僕らはおなじように成長し、またおなじように向かい合った。きみは僕を殺したことを、きっとこうかいするだろう。きみのだいじな あのひとを いつかきみがころしそうになったとき きみをとめることができるひとは もうどこにも いない の だか ら ・・・・・・・、




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06/4/18