どこにもいないひとの話 (56・57夜、完全ネタバレ)





故アレン・ウォーカーに捧ぐ

 それはオレが76体目のアクマをぶったたいた直後のことだった。ぴかっと空が光ったと思ったら、それきりもうなにもかも真っ暗になってしまった。世界が。そう、そのときオレは体全体であいつの心を感じてた。ピカッと光って、そしてもう真っ暗。かれは消えた。消えてしまった。だれかが空を見て「よくないことが起こる」と言った。オレはそっちを向かなかった。もしふりかえってその赤い空を見れば、血のようだと誰かが言った夕焼けが見えたことだろう。でもオレはそうしなかった。ただ、さっき光った方の空をずっと見つめていた。空と、雲と、真っ黒い竹林。船は港に戻っていた。人の声がした。ラビ、ラビ。オレは反射的にふりむいた。・・ああ、ばかな思い違い。リナリーがオレを呼んでいた。ぼろぼろで助けてと叫んでいた。「助けて、アレンくんが!」 まってくれ。今すぐにいく。でも少し待って。両足が動かないんだ。口が開かない。のどが痛い。待って、今すぐに。オレはそれを何百回もためしたような気がしてた。でも、ほんとのところ止まっていたのは3秒くらいなもんだった。ふりかえってジジイをさがした。目が合って、うなづいたのを端のほうにとらえてから、もうオレはいっさいふりかえらずに彼女のところに飛び降りて、うでをつかんで反対側で槌をにぎった。空は赤かっただろうか。わからない。よく見ていなかった。黒インクをこぼしたみたいに見えたのは、たぶんオレの勘違いだろうから、空は赤かったかもしれない。黒かったかもしれないけど。どっちみち関係なかった。よくないことはすでに起きたあとだった。赤かったにしろ、黒かったにしろ、オレにとっては意味のないことだった。それを思い出すことだって、今となっては意味なんかどこにもありはしないのだ。
 オレたちがそこにたどりついたとき、それより10分もまえに、事はすっかり片付いてた。そこには真っ黒い水溜りしか残っていなかった。血だ。それを血だと自分が言ったことを、アレンのものだと言ったことを、オレは自分でおどろいていた。どうみても黒い水溜りだった。灰色の土の上にぽっかり空いたブラックホールだ。血なんかじゃない。でもそれは血だった。リナリーの表情が物語っていた。それはまぎれもなくアレンの血で、アレンは勇敢にノアのクソ野郎に立ち向かい、イノセンスを砕かれ、ティムに向かって逃げろと言った。土の上には完璧に致死量をこえた血溜まりだけが残っていた。アレンの血だった。さわるともう冷たかった。いまは冬だ。ここではまだ雪がふっていないが、空気はピンとはりつめていて冷たかった。オレは灰色の指先で地面に触れ、黒く濡れた指をなめた。インクのようだと思ったが、鉄のような味がした。もうそれでじゅうぶんだった。(本当は、それを見つけたときから証拠なんかじゅうぶんにあったのだ。わざわざなめる必要なんかどこにもなかったのだ。)
 オレはアレンが死んだと思った。リナリーにそういった。・・言った?いや、言わなかったのかもしれない。よく覚えていない。彼女はまだアレンをさがしていた。オレは彼女の針の先みたいな希望の光を絶やせずにいたのかもしれない。それとも無表情な声でそれを断ち切ったのかも。よくわからない。とにかくオレの自慢の脳細胞はすっかりショートしてしまっていた。だいたい、色彩がもうどこにもなかった。世界は黒と灰色のグラデーションだった。白いのは脳裏に残ったかれの髪の毛だけ。老人みたいだと言ったら、それから拗ねてもうあまり見せてくれなかった。フードばっかりかぶってた。どうやらオレはかれの痛いところをついたらしい。それからは見せて、きれい、かわいいを連発してもぜんぜん相手にしてもらえなかった。オレの言い方がまずかったんかな。いま思い当たったんだけど。そうだとしたらもっと別の言い方をしたんだった。もっと別の。そのときとなりをふりかえって、リナリーにそれを相談したかった。でもオレはそうしなかった。リナリーはもうどこをどうふれても泣きそうで、オレは彼女が泣くのが嫌いだった。アレンもそうだった。あいつはリナをよく泣かすくせに、そのたびにおろおろしてた。ときどき理由がわからないこともあって、そのときはもっと所在なさそうにごめんなさいとくりかえした。アレンは助けをもとめるようにオレを見た。オレは意地悪く笑っていた。ほんとはわりとかなしかった。アレンはまったくわかってなかった。アレンはけっきょく、リナも、オレも、だれもかれもわかろうとしなかった。オレはほんとは泣きたかった。でもそう思っただけで、目は乾いたままだった。そういうことはよくあった。
 オレは一度もかれを助けてやらなかった。オレは一度もかれになにもいわなかった。フードを取ってすらもらえなかった。やりかたをすっかり間違えていた。でも、それだってもう意味のない話だった。世界は灰色。血に濡れたトランプのカード。アレン。アレン。通信用のゴーレムが鳴いた。ざらざらとジジイの声がした。戻れ。戻らなくては。オレはさっきとおなじようにリナリーのうでをつかんで「伸」といった。さっきとおなじように空高く舞い上がって、ただ前だけ見てもう二度とふりかえらなかった。空が黒く見えた。あれは赤だ。オレは無理やり思おうとした。でも実際、空は黒くなっていたのだ。日はもうすっかり落ちていた。
 オレはひとこともしゃべらなかった。リナリーはオレのうでをしっかりつかんでいた。オレは彼女を支えていた。でもほんとは彼女がオレを支えていたのかもしれない。・・両方だったのかもしれない。どちらにしろ、その手がはなれればどっちかが竹林に落ちただろう。世界は真っ暗だった。あたりまえだ。もうすっかり夜だった。それからもう二度と明けなかった。アレン・ウォーカーは死んだ。たとえ死んでいなくても、あの左腕をうしなったかれが生きているとも思えない。会うこともない。おなじ連れて行かれるなら、それが教団でも死神でも空の上の『あの人』でも同じことだ。そうだ、かれは月に持っていかれた。かれはあまりに浅はかだった。ばかだった。ばかやろう。ああ、そういっておくんだった。オレはそういっておくべきだった。そうでなければ愛してると言うべきだった。でももうそれを何百回言っても意味はない。アレンは死んだのだ。かれはいってしまった。オレは行かなくてはならない。オレはたしかにそういった。リナリーはとうとう泣いた。

 船は無事に出航して今度こそ予定通り海をはしった。風はしめってそこらじゅう魚の死んだにおいがした。空は相変わらず灰色で海は銀色にひかっていた。オレは槌を引き伸ばしてマストのうえにこしかけた。出航からこちらずっとそうしているのだ。となりにはティムキャンピーがいた。リナのところへいけばいいのにずっとオレにくっついている。見張りは暇だ。オレは高いところが好きだけど、海ばかり眺めているのはいいかげんつまらない。水平線はずっと同じ調子でときどき水面に魚がはねた。つまらないのでティムをつかんだ。見せて、というと口が裂けた。オレはそれをじっとみつめた。ただ見ていた。白い髪。銀色の瞳。赤い腕。疵。なんの感情もわいてこない。アレン・ウォーカー、×月×日死亡。笑えないジョークだ。オレはいま無表情なんだろう。ポケットをさぐる。煙草があっただろうかとちょっと思ったのだ。でもそんなのはなかった。指先に触れたものを取り出すと血のついたカードだった。思い出した。吸っているのをあいつにみつかって全部取られたのだ。オレはあの友人のように舌打ちをした。ティムのなかの映像がちょうどクライマックスにさしかかっていた。白い髪が遠ざかっていく。ぶつりと、なんの前触れもなくティムが映像を止めて口を閉じた。
 いまさっきかれの映っていたところが、いまは一面に蒼くスクリーンのようになめらかに広がっていた。オレはちょっとだけ笑った。下を向くと、甲板でミランダとクロがいつのまにかいい感じになっている。オレはすばやく槌をとりだし、見張りをティムにまかせると、そのおもしろそうなところへむかって手をのばした。数分後には、かつて共にいた仲間の記憶は指先に刺さったとげくらいに小さくなっていた。数日後に消えるだろう。記録だけが残る。喪中はもうすんだ。オレはさっきまでの記憶を正常なほうの映像に置き換えた。色のある方のちゃんとしたやつだ。そこにはスパークした脳が勝手に見せたでたらめな感情はどこにもない。オレはあの光が見えた瞬間、アレンのことなんかこれっぽちも感じなかったし、血のように赤い空を指差したのがだれだかもおぼえている。その色も。リナリーの声にはすぐに反応した。地面におちた大量の出血は赤かった。オレはすこし奥歯を噛んだが、リナリーにすべきことをちゃんとつげた。アレンは死んだのだ。そしてオレはまだ生きていて、これからも死ぬわけにはいかないのだ。

 リナリーがうでをつかんだ。ラビ、ラビ。起きて、と彼女が言うからオレはむりやりまぶたを押し上げた。世界は真っ暗。もう夜だ。「こっちにきて早く食事をとったらどう?ついでに、ね。かれにも持っていってあげてね。まだマストの上にいるのよ」リナリーがうえを見上げて、オレもマストの上を見た。ばかでかい月が、空っぽのマストを照らしていた。「かれ?」「アレンくんよ」「なに言ってるさ、あいつは・・」
 オレは言いかけて、もういちどマストの上をみた。ティムキャンピーが同じ位置をくるくると回りながら飛んでいる。アレン?オレはつぶやいていた。影が見えた気がしたのだ。「アレン!」 影がうごいた。びくっと身体をふるわせて、かれはフードをばさりとうしろにやると、きょろきょろとまわりを見回した。「あらやだ、寝てたのね」ととなりでリナリーがあきれたようにつぶやいた。白い髪が月に照らされてきらきら光っていた。・・いや、そこに月はなかった。星が多くて明るいから、そう思っただけのことだ。オレは声をあげてわらった。アレンがやっと気ついたようにこちらをふりかえった。「ラビー!いきなり呼ばないでくださいよ!」「バカ!おまえなに寝てんだよ、見張りのくせに!」「ね、寝てませんよ!ぼーっとしてただけです!」 となりでリナリーがくすくすと笑った。「まあ、おんなじね」 そしてかれに手を振って言った。「下りていらっしゃいよ!ふたりぶんの食事をとってあるのよ!」 アレンがマストの上から不満そうな声をあげた。「なんだ!ラビだって寝ていたくせに!」 オレはもう待ちきれずに、槌をとりだして手をのばした。マストの上までなんてものの1秒だ。そしてかれを抱きしめてキスしたかった。むちゃくちゃに。「アレン!」とオレはマストに手をかけてかれを呼んだ。そして、息を呑んだ。

 それきりもう言葉が出なかった。目のまえにあるものにすっかり圧倒されていた。つき。ばかでかい月。オレはそれを食い入るように見つめていた。たったいま名前を呼んだはずなのに、呼ばれたはずなのにもうそこにはなにもなかった。ティムキャンピーが羽をうごかしている。夜だ。真っ暗。とつぜん横から名前を呼ばれた。「ラビ」 オレはふりむいた。かれじゃないことはわかっていた。「ティムの映像を見ていたのね、もう何回目?」「何回目って、」オレはわけがわからなくてそういった。リナリーは悲しそうな顔をした。「もう3日も何も食べていないわ、いいかげん何か食べないと」「3日?」 鸚鵡返しにたずねると、彼女はうなづいてオレのうでをつかんだ。「そうよ。あなた、3日間見張りをしながらティムの映像ばっかり見ているじゃないの。食事にも下りてこないで。なにをしてるの?」 彼女は頭を左右にふりながら涙をこぼした。「ひどいわ、ラビ。ひどいわよ」 オレはわけがわからなかった。あるいは、とてもよくわかっているのかもしれなかった。彼女ははらはらと、流れる涙をぬぐいもせずにオレをみつめた。彼女は恨みがましいような瞳でオレをみつめながら、どうしてよ、と問い詰めた。オレは一言「ごめん」とつぶやいた。それしかできることがなかったのだ。ごめん、ごめんと何度も言った。なにに対する謝罪なのかすら、自分でもよくわかっていなかった。彼女は泣きつづけた。

 そのときやっと、オレはほんとうにかれのことを理解したのだ。




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05/8/8