彼の心、彼女の手 (藍に染め V)




 自室での療養中、といってもかれにとってできるのは、ひたすら暇な時間をもてあましながら天井をながめることだけだった。それをつづけてからもう20時間ほどがすぎている。
 任務中の戦闘で深手をおい、たまたま本部の近くだったために意識をとりもどした場所は自室の寝台のうえだった。放っておけば再生するような体なので、それからずっとただ天井を眺めている。
 分厚く何もかもを遮断するような壁のむこうで、かすかに雨の音が聞こえていた。音と言えばそれくらいのもので、起きたときに動かして再生が不十分な両手のせいで、かれは本を読むこともできずに暇をもてあましていた。
 遠い天井は奥が闇に染まって、ふと自分が寝ているのか起きているのかわからなくなる。かれはイライラとため息をついて、この退屈の理由―両手の再生が遅れた原因であるかれの騒がしい訪問者に心中で悪態をついた。目覚めたときやってきたかれらは、花びらとガラスの破片と水を部屋中にばらまいたあげく(その半分はかれ自身によるものだったが)、様子を見にやってきたリナリー・リーにそれを見咎められ、研究室の終わるあてのない掃除を命じられたまま戻ってこなかった。いまのところ、かれら10代のエクソシストの中で彼女に勝るものはいない。
 そんなわけで、動けないかれができるのはひたすら天井をみつめること。雨と、ときどき聞こえる雷鳴とを聞きながら、己の倒せなかったあの兵器を脳裏に思い描き、頭の中で残忍に(かれがされたのと同じような)仕打ちをあたえてやることだけだ。たとえば腕を引きちぎり、六幻を突きたてて悲鳴をあげるあれらの首をなぎはらう。血が飛び散る。雨が体中をぬらし、かれはふりむいてもう一体の胴を裂く。上から、左から、後方からもう一体。想像は現実に結びつこうとしている。ふりかえったかれの目にえげつなく哂いながら鋭い鍵爪を振り下ろす兵器が見えた。遠くで名を呼ぶ声と雨。六幻は手にない・・―。
「・・・・」
 コンコン、と扉をたたく規則的な音にかれは天井の闇から目をそらした。強くにぎりしめたままの刀が熱をもっていた。それはしっかりとかれの手にあったはずなのに、想像の中ですらかれはまたあれらに喰われるところだった。神田、と重い扉の向こうで鳥のような声が言う。彼女のソプラノはしっかりとした発音で、入るわよ、と宣言するとかれの返事も聞かずに扉をあけた。動けないかれはただそちらに機嫌の悪い視線をおくるだけだ。なによ、と視線に気づいたリナリー・リーが子供のように頬をふくらました。つきあいの長い彼女は、かれの表情をよく読みとって話す。リナリーと話していると、きみは無口で美少年に見えるよ、とは彼女の兄がいつだか言ったことばだった。
 実際、かれらの会話は3分の二がリナリーのお喋りによるものだ、とかれは思う。はじめのころは慣れない言語をうまく使えず、ほとんど単語だけの会話をした経験もあった。しかし思うように言葉をつかえるようになったいまでも、彼女を言葉で制することができるなどとは到底かれには思えない。
「せっかく夕食もってきてあげたのに。不満そうな顔」
「・・20時間放っておいてか?」
 研究室にいたのよ、と彼女はわるびれもせずに告げると、かれのかたわらにあるスタンドから空になった点滴の袋をはずした。あ、神田ってばまた自分で点滴付け替えたでしょう。咎めるような口調にかれはリナリーをにらんだ。だれも来なきゃ自分でやるしかねえだろうが、それとも血抜かれてろってのかよ。呼べばいいじゃないの。誰をだよ。そんなの自分で考えなさいよ、子供じゃないんだから。終わりの見えない言い合いは結局のところ先に口を閉じたほうが負けだ。かれが次の言葉をさしはさむ余裕もなく、そんなだからご飯も忘れられちゃうんだわ、と無茶苦茶な結論をだして、彼女はサイドテーブルにおいた皿から梨を手にとった。
「兄さんがね、回復するまではこれで我慢しなさいって」
 表情を険しくしたかれを見て、リナリーがちらりと笑った。「いやがらせかよ、って顔」
 だめよ、いまはこれ以外あげない。そう言われれば、かれにもう言う言葉はない。なめらかな表面の果物に銀のナイフをあてがった彼女に、そのまま寄こせよ、とかれは言った。手は?もう使える。かれは肘でばさりと毛布を押しのけて、包帯で指まで固定された左手を差し出した。まあ、すごい手ね。リナリーはそれを見て半ば感心したような、あきれたような声で言った。
「指、ちゃんとあるの、食べられちゃってない?」
「喰われてたまるかよ。だいたいあいつらは人間喰っても意味ねえんだ」
 楽しむ以外には、と言い添えたかれに彼女は眉をひそめた。兵器は徐々に進化している。残忍な殺し方はとどまるところを知らず、かれと同様に彼女もまたそこへ行くのだ。痛い?と彼女は聞いた。べつに。ほんとに?かれは言うべき言葉が見つからずにだまりこんだ。喰われていく瞬間、引きちぎられる筋肉、熱、叫喚。黒く染まっていく視界。それらを説明したとして、逃れるすべはなにもないのだ。だまったままの彼の考えがわかったように、リナリーはごめん、とひとことあやまった。「ごめん、もういいわ。もうやめて」
 ちいさく沈黙が落ち、やがて彼女は手の中にあった果物を銀のナイフでむきはじめた。今度はかれもそれを止めようとはしなかった。
「皮までむくのかよ」
「なによ、いつも残すじゃないの」
 それは林檎のはなしだ、とかれは思ったが、それでめんどうな言い争いをしてもはじまらないのでやはりなにも言わなかった。薄く色づいた梨は、器用な彼女の手の中でぺろりと白い実をあらわにする。やわらかな身を転がす彼女の指をつたい、あふれた汁がその腕を一筋落ちていった。なにをしたわけでもないのに、かれはなんとなく目のやり場に困って、彼女が来る前のように天井の暗い部分をじっと見つめた。彼女のさっきの言葉。(・・痛い?)。兵器を思い出そうとするかれの脳裏に、ちらちらと彼女のうでの残像が残っていた。胸がざわつく。まだ少年であり少女であったときから、いつでもかれらはその質問にたどり着いて、行く先を失った。
 「リナリー、」とかれはかたわらの彼女に呼びかけた。彼女は顔をあげてかれをみる。天井の暗やみ。たぶんあそこには何もない。かれが彼女の満足できる答えをもっているとは到底思えなかった。
「痛みなんて一瞬だ。それにおまえにはたった一度だ」
 そのことばに、彼女はなにも言わなかった。息を呑んで、それきりだ。その長い睫のしたにどんな感情が隠れているのかかれは知らなかったし、また知る気もなかった。「はい、できたわよ」と彼女がフォークごと剥き身の梨をかれの口元に差し出したときには、すべてがいつもの彼女とかわりないように思えた。かれは面食らって目の前のフォークを見つめる。・・自分で食える。だめだめ、指うごかせないでしょ。やけに楽しそうじゃねえか、おまえ。
「そうよ、だってお祝いですもの」
 何のだよ。けれど彼女はそれに答えず、甘い汁を今まさに滴らせている一切れを、しぶしぶと開けたかれの口に放り込んだ。やわらかい梨はくしゃりと口の中でつぶれて、熟れすぎじゃねえのか、とかれはリナリーに不平を言った。そんなことないわよ、と彼女の白い手は何度となくかれに熟れた梨を運んで、かれはようやく、これは嫌がらせに違いないと甘い汁を飲み込んだ。



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05/6/5