藍に染め U




 寝ている間にかれは懐かしい匂いをかいだ。瑞々しく雨を思い出させるような、澄んだ空をみたような花の香りだ。それのせいで妙な気分にさせられて、捨ててきた遠い場所のことを思い出した。かれが足げく通った白い病人、彼女は心を病んでいたのだったか。一族に見捨てられ、置き去りにされながらなぜかその死に顔はおだやかだった。そのあとかれの見たどの死に顔とも違う。順当に死を受け入れて逝った人間の顔だった。そうか、あれが人間の死に方か。白く冷たく、どこにもなにも残らない抜け殻だ。彼女は蔑まれて死んだが、おかげで馬鹿げた兵器にならずにすんだ。よかった、とあいつなら言うだろう。それともかわいそうだと言うのだろうか。・・両方だ。あの生っ白い肌。あの甘チャンが。

「・・ンだ、これ」
 目を開けて真っ先に視界にとびこんできた色に、むせかえるようにかれはつぶやいた。藍色だった。すれたような色合いの青い花がかれのすぐそばにあり、あの匂いがそれだったと気がついた。なんでこんなもんが。言おうとしたが、声がかすれて上手く言えず、のどが焼けたようにカラカラだった。手足がしびれて身動きがとれない。かれはまた生き延びたのだ。もしくは死んで戻ってきた。めまいがする色を目を閉じて追いやって、かれは覚えのある最後の記憶を必死にたぐり寄せた。思い出すのも気分が悪くなるような記憶だった。レベル2がまわりにうじゃうじゃ群がって食い物にされている。手足はあるから、どうやら食われたのは皮膚くらいなものらしかった。あれらがどうなったかは知らないが、本部に戻されたということはカタがついたのだろう。かれは目を開けると、鉛でも詰めこまれているかと思う重さの毛布から腕をだして、枕元をさぐった。
「あれ、起きた」
 遠く、戸口あたりから声がした。聞きおぼえのある、しかし非常に珍しいたぐいの声にかれがそちらをふりむくと、相手はひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「六幻はどこだ」
「開口一番それかよ」
 頭の上にあんだろ、と示されて手で探るとそこに柄の冷たく慣れた感触がふれた。かれはそれを中まで引きこみ、いつでも引き抜けるように腕の間に抱きこんだ。ホームだぜ、ユウ。頭の上からあきれたような声がしたが、うるせえよ、と一蹴した。毛布の中でぎゅっと柄をにぎりしめる。握力が足りないのか、どこか違和感があった。水は、と男に問われる。ひどい声だぜ、ヤッたあとみたい。そこでようやくのどの渇きを思い出した。いる、と答えると男はサイドテーブルに置かれたグラスに水をついでよこした。飲ませてほしい?いらねえよ。男がおかしそうに笑う。流し込んだ水は鉄のような味がして、あまりの不味さに吐き気がした。体全体にまだ死の雰囲気がまとわりついていて、細胞のひとつひとつが再生していくのを食い止めようとしているようだった。それでも苦心して最後まで流し込むと、熱に浮かされていた体がようやく少しずつ冷めてくる。く、と小さく声が聞こえて傍らを見ると、相手は赤い長髪をゆらして肩をふるわせていた。
「おいラビ、なに笑ってんだよ」
「だってさ」とこらえきれないようににやにやしながら。
「おまえ、起きて真っ先に考えるのが六幻って!」
 恋人かよ。最後のほうはすでに腹を抱えて笑いながら言った。てめえに言われたかねえな、とかれはその横っ腹を小突いたが、横になっていたので実際はこぶしを当てた程度のことだった。ラビはひとしきり笑って落ち着くと、いきなり思い出したように、ひさしぶり、とかれに言った。それで前に顔をあわせたのは半年ほど前だったと思い出した。かれは意地悪く口をゆがめる。死んだかと思ってたぜ。こっちのセリフさ、とラビが苦笑した。喰われたってなァ、もうちょっとでゾンビんなってんぜ。情けない声を出すラビの言い方を、かれは鼻で笑い飛ばした。笑うことができたのが幸運な戦闘だった。かれの再生する体は失った箇所を修復できない。脳や内臓を喰われていたら、もしくは頭からぱくりとやられていたのならラビの言うゾンビですらなかったろう。ふたりの間に沈黙が落ちた。あったかもしれない、そしておそらくは先の未来にかならずあるだろう不在へ、ふたりはしばらくのあいだ思いをはせた。人なんてパタパタ死んでいく。死ぬつもりはないが、しかしパタパタと死んでいくのだ。

 「あいつはどうだ?」とかれはたずねた。今回の任務に不本意ながら同行をゆるした新人(もっともかれらに選択権はない)。やつはどうだったろう。記憶のあるぎりぎりのところで、うるさく名を呼ばれた気がしていた。
「あいつ?」
「あの、生っ白いガキは、死んだか?」
「・・生きてるかって聞けよ、ユウ」
 あきれたようにラビが笑う。口をひらきかけ、そしてまた閉じるとにやりと質の悪い笑みをうかべた。
「素直じゃねえさ、ユウちゃん」
 なにがだよ。かれが眉をひそめると、ラビはいきなり背をかがめてぼそりと耳元で低くささやいた。そしてかれの口唇にキスを落とす。
「オレもアレンはかわいくって好きさ!」
「は?意味わかんねえよ!俺はあいつが嫌いだっていつも・・」
 手に負えない子供みたいにからんでくるラビを押しのけながら言っていると、開いた戸口でゴンゴン、と機嫌の悪いノック音がしてふたりしてそちらをふりむいた。あいてたのか、とかれはいまさらに思った。男は白い髪に白い肌に、おまけに白い包帯を腕や足にぐるぐるとまいている。おいラビ、とかれはあわてるふうもなく傍らの男に言った。ゾンビってのはあれだろう。ちがうって、あれはミイラ男ってんだろ。
「どうでもいいですけどね、」
 廊下までまる聞こえですよ、ふたりとも。とこれまた不機嫌な声が廊下から聞こえて、首に取りついていたラビがかれにだけわかるように、ほらな、とさも楽しそうに言った。
「やっぱ見てたさ、アレンってば妬いてンだろ?」
「な!や、やいてませんよ!」
 なんで僕が!とアレンは持っていたものをばさばさとふりまわしながらラビに抗議した。ふりまわすたびに小さな花が床に散らばる。やっぱりこいつか、とかれはだんだんエスカレートする騒ぎにいらいらとため息をついた。藍色があふれている。水滴と花弁と雨と土と花の匂いが部屋じゅうにあふれかえる。・・なんで僕が神田なんか!うそうそ、花なんて持っちゃって、アレンってばスミにおけないさ。ちがいますよ、これはリナリーが!さっきまで泣きそうだったくせになー。な、泣いてな・・ていうかそれ言っちゃだめって、あ、まってラビラビ花束こわれちゃ、・・!
「てめえらいいかげんにしろ!!」
 ばさばさと音がして、さけんだかれの上に無数の花が飛び散った。渦中のふたりはすでに取っ組み合ってじゃれあっている。かれがこんなふうに寝ていなかったら、いや寝ているからこそふたりは背後を気にせずに騒いでいられるのだったが。
「おまえらふたりともこっから出て行け!永遠に戻ってくんな!!」
 かれは回復しかけた左手をサイドテーブルにのばして、いちばん手前にあったものを掴んだ。うわ、ユウが!まってまって!あわてて身構えたさわがしいふたりのうえに、たいへんな音をたてて花瓶ごと青い花が散った。



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05/6/3