藍に染め T




 藍に染めゆくは山ひとつ。雨上がり。泥の中には黒々と水が溜まり、覗きこむと反射して蒼くうつる。水が滴り、葉からこぼれて首に落ちた。水の匂い。花の匂い。空の。

 病人はその時分、好んでよく枕のとなりに擂り鉢を置いた。気のふれたような人でまわりからは遠巻きにされ、その人が持つのはすでに欠けた擂り鉢ひとつであった。はじめて見たとき、疎遠の叔母だと歳の離れた従姉がこっそりかれに耳打ちした。家の敷地の離れでくらすうち病でそうなったのだと囁いたが、べつの従姉の言うにはそもそも気がふれたためにここに放りこまれたのだという。真意は定かでないのだった。拠り付いてはならぬとよくよく言い渡されたものの、言われればいっそうかれはよくそこに通った。病はうつらぬものだとその従姉に聞いたからだった。病人の肌は白く、浮き出た血管で青ざめ指は枝のようだったが、香のような花の香りがしていた。かれが訪ねると枕もとの鉢をその枝のようなもので指し、水を、と言って微笑んだ。かれはよく鉢の水をかえ、病人と二言三言かわしてかえった。
「水は澄んでいなくちゃいけません。空がしっかり映るように」
 彼女はきまってつぶやいた。寝ている姿勢では空が見えず、鉢の水に映りこむのを見るのだという。起きることがかなわないので、日がな一日そればかりしてすごしているらしかった。話す言葉は小声だがしっかりとして、それだけでは気がふれているとは思えなかった。しかしときどき前の話をわすれたり、かれの名前をまったく覚えていなかったりしたので、やはり気がふれているのだろうかと思っていた。
 その年が晩年だった。梅雨に入って雨ばかりになると彼女の好きな空は薄れ、命も薄れた。離れの小屋のなかには、どこかから忍び込んだ死の匂いが充満し、花の香りももうしなかった。外はあいかわらず雨だというのに彼女は鉢に水を、と言い続けた。井戸の水も雨でにごり、澄んだ水などもうどこにもなかった。かれはいいかげんうんざりしていた。彼女の死の匂い、まとわりつく感じ。ちょうど従姉にかれが離れへ通っていることを知られてしまい、かれはそこに通うことをしなくなった。
 うしろめいたい思いと開放感がない交ぜになった気持ちを抱えて、やっとあがった雨の合い間にあじさいを見に行った。前の年にはじめてつれられて行ったそこに、その年はまだ訪れていなかったのだ。坂の一面が花で覆われ、藍色に染まる様を見たいと思った。あじさいは大輪だった。上から下までが青く染まり、ちょうど雲の切れ間にのぞいた空がそのまま映しこまれたようだった。彼女はどうしたろう、とかれは突然に思いたってやけにそわそわと心がうずいた。あの白く小さな叔母は、この空を見ているだろうか。にごった水のことが気がかりになり、かれはその足で叔母の離れを訪れた。もしも死んでいたら、と思う気持ちが戸にかかったかれの手をにぶらせたが、かれは意を決して戸を開いた。床についた白い人が頭をもたげる。ふりむいていつものように微笑うと、「こっちへいらっしゃい」と春の虫のように囁いた。「水をかえておくれ」
 かれは欠けた鉢に水をはり、また彼女と言葉を交わした。あじさいを見に行きました、空までつづいていて藍く染まっているのです。そう、それは見たかったこと。あしたはひとつ、手折ってきます。手折ったら、そこの鉢へ生けてちょうだいな、私、寝ているかもしれないから。

 それが最期だった。寝ていると思った彼女の言いつけどおり、次の日鉢にあじさいを生けたが、その日の夜に家人が気づいたところでは、昨日の夜には死んでいたようだと言うのだった。死体は花の香りだった。あれほど死の匂いにむせかえった部屋であったはずなのに、いざ死んでみると彼女は彼女でしかなかった。白い四肢はますます白く、つめたく、花の香りがするのだったが、ようやくかれはそれがあじさいの香だったと気づいたのだった。死体は一族の墓でなく、外れものだというので敷地にこっそり埋葬された。彼女の生前を知っていただれかが、あじさいの木の下がいいだろうと言ったのでそうなった。彼女はあのあじさいの丘をよく訪れていたのだそうだ。早くに逝った彼女の恋人と会っていたのがあの場所らしかった。身分の違いから引き裂かれ、一度は駆け落ちしようとしたのを連れ戻されて、相手は一族のだれかに斬られたのだとか。それも当然だと、これはまた違う叔母だか叔父だかがはなすのをかれは遠くに聞いていた。
 彼女の忘れられた墓に咲くあじさいは、年を追うごとにいっそう青々と鞠のような華をつけた。かれはそれを何度か見たが、いく度目かの梅雨以来はそれを見ていない。死というものは思いのほかきれいだったとあのときのかれは思ったが、その思いも年月のうちに消えはてた。今のかれに死はすでに常の習いとなって、そのどす黒い闇はかれに何度となく死のなんたるかをみせていた。今となってはあの白く死んでいった彼女の死が、己の夢想のものなのかもしれないとさえ思う。それをたしかめる人も、もうどこにもいない。彼女やかれを知るひとがどこにいるとも思えない。

 死は身近で、しかし遠い。いつか身体が死体になったら、あじさいの花が何色になるのか確かめたいと思ったが、その幼い想像をかなえるすべも、いまはもうないのだ。



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05/6/1