かれは林檎を恋しがる




 かれは林檎を食べていた。がり、とひと口噛むたびに、甘酸っぱく慣れ親しんだ芳香がひろがる。慣れすぎて、もはや飽きてしまうほどに何日もそれを続けているのだ。けれどかれは、となりを歩くラビの話を聞きながら、うんうんとうなづいてまたひと口林檎をほおばった。・・んで、あのパンダ爺が気持ちよさそうに寝てる間にさ。廊下を歩くふたりの声が、高い天井に反響している。ラビの間延びしたのんきな話し声。アレンのかじる林檎とあいづち。それらが反響して戻ってきて、うしろにすぎていった。いまとおった廊下を逆にたどっていったら、そこらじゅうに林檎の香りがするんじゃないだろうか。そんなことを考えていたら、となりを歩いていたラビが心の中を読んだように「アレン、最近りんごばっか食ってんな」と笑った。「今日は6コめ」
「そうですか?」
 そんなに食べていただろうか。ラビはうなづきながら指をおって数えた。「食堂で1コ、廊下で1コ、戻って調理場から2コもらってきてそれ食っちまっただろ。んで、さっきコムイんとこにあったの1コ」・・で、それで6コめさ。といま食べているぶんを指さして。考えてみたらそのくらい食べていたかもしれないな、とアレンはうなづいた。通算73コめ。ととなりから指摘が入る。それにはさすがにあきれながら。
「ラビ、そんなの数えなくていいよ」
「おぼえてただけさ」
 そのよすぎる記憶力もどうかと思う、とかれはもごもご口をうごかした。しゃりしゃりと林檎をかみくだきながら。ここまできたらもはや林檎中毒者だな、とかれ自身あきれて、口を動かしながらううんとうなった。どしたんさ、ととなりから。かれは、いえね、と言ってからいま食べている果物の最後の実の部分をがり、とかんで飲み込んだ。残った細い芯を指先でもてあそびながら、でもまだ物足りないなあと思う。腹こわすぜ、と呆れ顔で言われるけれど、なにせかれの胃袋はラビの脳みそとおなじでブラックホールだ。
「・・その、73ていうのはいつから数えてなんですか?」
「6日前さね」
 ラビは考えもせずにさらりと答えた。そうですか、とアレンは自分の記憶をたどって考える。6日前、先週の金曜。なにかあっただろうか。思い出そうとしてもすぐには思いあたることがない。この何週間かは本部でコムイやリナリーの手伝いばかりで、ことさら事件というものもなかったのだ。任務はいくつかあったけれど、どちらも本部の近くだったしイノセンスはみつからなかった。頭の中の引き出しを開けてみても途方にくれるばかりで、こういうときは、とばかりにアレンはラビの方をみた。ラビはうん?とすこしだけ片目を大きくして、それからアレンの視線の意味に気づいたらしく、あきれ顔でかれの名前を呼んだ。・・アレーン?
「おまえね、いくらオレでも見てないことはわかんないっしょ」
 自分のことは自分で考えなサイ、とぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまわされる。子ども扱いだなあ、と思って、でもあまり嫌な気分じゃないのはきっとそれがラビだからだな、とどこかで考えながら。「でも、最近はずっとラビといっしょでしたよ」
「6日前からね」
「・・そう、なんですか?」
 気づかなかったな、とかれはすこし驚いて目を見開いた。さすがと言おうか、そういうことを考えもせずに記憶から引っ張り出せるのがラビだった。うらやましいのを通り越して空恐ろしくなるような能力だ。ラビの無限かと思える記憶の格納庫には、きっと見た限り聞いた限りのすべてが詰まっていて引き出せるのだろう。それがたとえ恐ろしい記憶でも、それらを思うだけで引き出せるそのひとの心情などかれには到底理解できなかった。けれどラビはそれを恐ろしげもなく口にする。それがこのひとの役目で、いづれそのためだけにラビは生きなければならないからだ。
「6日前さ、おまえがオレのとこ来たんは」
 ラビは物語のページをめくるように、言葉を区切るたびに瞬きをした。目の中にうつっているのはこの、記憶そのものみたいな人が見た、アレンというもののすがただろうか。ラビはいつもどおりの笑顔でいつものように話している。ラビの間延びした言葉づかい、けれどアレンはそれをときどきこわいと感じることがあった。ラビはかれを甘やかすくせに、いつでもどこかで真実をつきつける。だからだろうか、とアレンはラビのことばを待ちながら思った。だから、かれはラビのとなりにいるのだろうか。一番最後に手を離してくれると思っているから。(もしくは、かれが手を離したいと思ったそのときに感じ取ってくれるのがラビだから?)
 アレンはラビの言葉を待った。アレン・ウォーカーに関するできごと。けれど、ラビは何かをいいかけてやめてしまった。ううん、と少し考えるようにうなってからアレンのほうをみると、「最近ずっと食ってばっかだな」と言った。話が戻ってしまった。「最近すごくおなかがすくんですよ」アレンは肩をすくめてこたえる。へえ、と相手が片目をあげた。
「寄生型はもともとすごく食べるから、そんなに気にすることもないかと思って」
「りんごばっかり?」
 ほんとうは、とかれは手の中に残っていた林檎の芯をみつめて言った。さっき食堂に顔を出したら、知り合いのコックが投げて寄こしてくれたものだ。・・そらよ、これだろ?どうしてわかったの。だっておまえ、このごろは林檎ばっかり食ってるじゃねえか。買い足しの注文書にすこし多めに入れておいたよ、とコックは笑って言ってくれたが。「ほんとうは、ちがうのかも」かれはつぶやいた。物足りない。ずっと物足りなくて空腹で朝から晩まで食べ物のことばかり考えているような気がする。「欲求不満だったりして」と、となりから意地悪くラビが笑った。「アレン、最近足りてる?」とからかうように言われて、さすがに少しあきれた。
「あのね、僕そんなのわかんないほど子供じゃないですよ」
「どーかね、おにいさん相手してやってもいいよ?」
 いらないですよ、とにらんだらさらに笑われた。かわいいと言われてあまり嬉しがる年齢でもない。むっとしていたらごまかされるようにキスをされて、それもすこし気に入らなかった。不満そうな顔をしていたのに気づいたのか、ラビはかれの顔を見て少し笑う。アレンはさ、と。ラビの口調はいつでもかわらない。
「アレンはオレに甘やかしてほしいんさ」
 アレン。アレン・ウォーカーというものの記憶。「おまえは6日間ずーっとオレのあとにくっついて、甘やかされたくてそばにいてほしくて、突き落としてほしくてたまらないんだろ」
 アレンは息を呑んでラビをみつめた。そんなのこと、と言いかけたけれどそれも最後まで発音されることがない。それはたしかに当たっていた。けれどどこか違っている。いいけどな、と相手はなんでもないことのように言った。おまえがそうしてほしいんならね。アレンはラビを見た。その片目の中にアレン・ウォーカーがうつっている。「そうならいいのに」とかれはつぶやいた。ラビが抱きしめてくれるから、おとなしくそのうでの中におさまって肩口に顔をうずめる。「そうならいいのにな」
 けれど気持ちはたぶんもう少し複雑だ。どこかに行ってほしいと思いながらうでをつかんでいる。耳を塞ぎながら聞いている。拒みながらもとめている。むずかしいな、とかれがそう言ったら、ラビはなぜか嬉しそうな顔をした。「手を離せば、そんなにむずかしいことじゃないさ」・・それは、誰の手なのだろう。かれにとってはあまりに難解なその言葉。

「知りたかったら、さっさとこっちに来たらいい」



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05/6/10