王様 (続 ぼくをつかまえてよ)




 目が覚める。ぱちりとまるで決められた時間のように夢はとぎれ、まぶたは唐突にひらかれた。眠気はない。ただすこしの罪悪感とともにためいきをつくだけだ。アレンはベットに半身を起こし、ひんやりとした空気とうす暗がりをかれが息を吐いたと同じ分だけ吸い込んだ。夜中の空気だった。かれの予想があたっていれば、まえに眠りについてから2時間ほどしかたっていないはずだ。眠くないのが不思議だが、それならばベットに入っていることはないだろう。「早起きしちゃったな」とつぶやきながら、アレンはもそもそとベットをぬけた。まどの外をちらりと見たが、日の出はずいぶんさきだろうと思われた。かれはいつもの習慣どおりのびをして左目のひきつれた傷にふれた。
「おはよう」
 まだここにある。

 いつものように軽い運動のあと食堂に向かったが、それでも朝食には随分はやい時間だった。教会の講堂の倍はあるかと思われる広い食堂に人はまばらで、その大半は徹夜明けの研究員だった。いつも賑っている時間にしか訪れたことのなかったアレンは、そこが意外にひろく薄暗かったことにすこし驚いた。広さのわりに窓が少なくろうそくの明かりばかりで、おまけにいまは人が少ないのでひどく静かだった。長いカウンターを隔てた向こう側から料理番たちのたてる音だけががちゃがちゃと響いたが、それだって人の多い時間にくらべるべくもないほど静かだった。
「おはよう、フランクさん」
 かれがカウンターの格子越しにいちばん近くのコックに声をかけると(かれはコックの名前だけは全員記憶している)、名前を呼ばれた体格のいい男はふりかえってあいさつした。
「おはよう、アレン。今日はまたずいぶん早いな」
 これから任務かい、それとも仕事明け?と気のいいコックは笑顔で尋ねた。
「いいえ、早起きしちゃったんです。朝ごはんをお願いしたいんですけど、ジェリーさんは今朝はまだ?」
 かれはそう尋ねたが、それはかれの注文があまりにバラエティーに富んでいてしかも相当な量であったため、いつもきまって注文をうけるのがジェリーの役目と決っていたからだった。世界をまたにかける料理番(その意味はいまだにかれにはわからない)と豪語してはばからないジェリーだけが、アレンの注文を聞いてもおどろかずにそのありとあらゆる料理の数々をならべることができた。
「さっき寝たとこさ。今朝は早くから任務明けのやつらに作っていたんでな。混む時間には起きるだろうが、あんたは今食べるだろ?」
「お願いできるなら」
 するとフランクは大きく笑って、おれの料理でよけりゃあな、あまり多国籍にしてくれるな。と油染みのついた胸ポケットから小さく丸まった鉛筆を取り出した。アレンはそれに、とんでもない、とにこりと笑う。
「フランクさんのブレックファストはおいしいって評判ですよ」
 そしてアレンは決められた朝食のセットをAからGまで注文し、二人前ずつ大盛りで、と最後にさらりと言い添えた。

「彼、っていつもこの時間ですか?」
 フライパンを動かすなめらかな動作をながめながら、アレンはこのコックにさっきから気になっていることを聞いてみた。フランクはフライパンふりながら、うん?、と顔をあげてかれをみる。アレンはちらりと食堂の中央に目をやって、そこに座る黒髪の青年を見た。席はたくさん空いているのにその人は正確に中央に居すわっている。まるで王様か高貴な人間のように、どの場所からも距離を保ってなおかつ図々しく、姿勢のよい人物だった。
「神田かい?たいていな」
 この時間さ、やつは人ごみが嫌いなんだろうよ。とフランクは言ったが、アレンはそれはむしろ人ごみというより人が嫌なんじゃないのかとちらりと思った。かれは入団からあと、神田にはずいぶんとひどい言われようをされていたので、いまさらその人に対してだけは遠慮をする必要もないと思っていた。はじめの日もかれは神田がファインダーの何人かに喧嘩をふっかけているのを目撃している。とはいえ、それは神田にとっては日常茶飯事で、それもただ自分の意見に正直で口に出さずにはいられず、しかもそれが相手の神経を逆撫でせずにはおれなかったからだが。そのことも、アレンは最初の任務でひと月ほどいっしょに過ごしたあいだに知っていた。ようするに真っ正直で不器用で口が悪く、自分ではそれを悪いと思っていないのだ。すごく肯定的に言えば。
 そういえばあの日以来、神田を食堂で見かけたことはなかったなと思い出す。もっとも任務でそれどころではなかったけれど。
「はいよ、朝食セットAからG、おまちどう!」
 朝番のコックが総動員で、作った朝食をずらりとカウンターの上に並べた。
「ありがとう」
 アレンはそれを持ち前をバランス感覚で垂直に積み上げ、ピエロよろしく両手にもって危なげなくテーブルへと歩いて行った。ひゅー、と後ろでコックの何人かが口笛をふく。何度見てもすごい芸だな。エクソシストってやつはみんなああかね。いやいや、あいつは特別さ。食堂はあいかわらず、調理場だけが不自然な喧騒につつまれていた。アレンはそちらに背を向けると、テーブルとイスと静寂の間をぬけて中央の厳粛なところに向かっていった。

 チッ、と神田は舌打ちをした。アレンの「おはよう」に対する返事だ。厳粛な空気は一瞬にして険悪なムードにとってかわった。
「朝からモヤシかよ」
 神田は顔をしかめると、顔もそらさず真正面からはっきり言った。「アレンですよ」とかれは言って、手に持ったプレートをテーブルに並べながら「ここ空いてます?」と相手にたずねた。
「訊くなら座るな。俺がイエスと言うとでも思ったのか」
「・・あいかわらず酷いな、ただの礼儀ですよ」
 アレンは肩をすくめて列を成した朝食セットの前にすわった。神田の口の悪さにはすっかり慣れているので臆することもない。屁理屈め、と神田が小さくしかしはっきりつぶやいたが、かれはそれも聞こえないことにした。こういう物言いにいちいちつきあっていては話が進まないのは経験済みだった。無駄な争いは空腹の敵だ。だいたい、かれは神田を口で言うほど嫌ってはいなかった。たぶん、少しだけ好いてもいた。その黒髪や容姿の際だったところは言うまでもなかったし、纏う空気が凛としてはりつめるのはどこか心地よくもある。ただ、口さえ開かなければ。目の前の神田は目に見えて機嫌悪く食事を再開したが、けっきょくアレンにどけとはいわなかった。空気はあいかわらず殺気立っていたが、乱暴な箸使いでも神田はどこか品がある。・・もっとも、アレンにそれが見えていたかどうかはわからない。かれは自分の食事がはじまると、ほぼそれにだけ没頭した。やけに殺気立った青年とものすごいはやさで目の前の食べ物を消化するかれを、たまたま目撃した研究員たちは恐ろしいものをみるように遠ざけた。
「神田ってあんまり食べませんよね」
 驚異的なはやさでほとんど半分を平らげひと心地つくと、アレンはやっと青年の食事を見るにいたった。最低限で無駄なく栄養を補給できる身体をうらやましいと思う。いいなあ、とかれがつぶやくと、神田は見慣れたしかめっ面で「てめぇの食事は胸くそが悪くなる」と言い返した。
「だったら見なくていいですよ」
「寄ってきたのはおまえだろうが」
「そうでした」
 神田は小さく舌打ちをする。なんで俺がてめぇと仲良く食事なんざ。じゃあどけって言えばいいでしょ。少し強い調子で言い返す。アレンも神田の言い方にだんだんと気分を害しはじめていた。じゃあなんで座った?とにらまれて、わかりませんよ、と応えたのはもう喧嘩腰だった。「わからないだと?」。ついに神田がアレンの胸ぐらをつかみあげた。
 テーブル越しにつかみかかられながら、アレンは自分自身に違和感を感じていた。いつもならかれはこんなことで気分を害したりしないはずだった。神田との言い争いはよくあるが、こんな馬鹿げたはじまりではない。どうして座った、と神田が聞いた。わからなかった。席はたくさんあったのに、かれは神田の前を選んだのだ。くだらない質問をして、くだらないことで勝手に自分で怒っていた。神田の言い方がきついのはいつものことだ。変なのは自分だった。
「・・すいません、今のは僕が悪い。こんなのは馬鹿げてます」
 あやまって、自分もつかみかかろうとしていた手を下におろした。まわりが何事かとかれらを見ている。それにも気づいていなかった。そのまま後ろに下がろうとしたのを、神田はまだ放さずにいた。
「俺はどうして座ったのかって訊いてんだ。喧嘩売っといて勝手に謝ってんじゃねえよ、モヤシ」
「僕だってわかりませんよ。ただ、ひとりでいたくなかった」
 その言葉はとっさに思いついたことだが、言ってから真実だったと気づいた。神田が馬鹿にしたように笑って、アレンは情けなさに目をそらした。
「・・だから言ったじゃないですか。馬鹿げてる。きみがそれをいちばん嫌うのも知ってる」
 しばらくの沈黙と、目をそらしたまま左頬に射るような視線を感じた。つかまれていたところをドン、と突かれてアレンはそのままイスに投げ出される。神田は悪態をつきながらどかりと目の前に腰を下ろした。親切にも(そして命知らずにも)止めに入ろうとした何人かが、息をついてほっとしながら自分の席に戻って行った。
「・・、飯が不味い」
「すいません」
 それでも神田はそこにアレンがいることを許可している。だまって食事を再開したかれらの、食器に当たる金属の音だけがやけに響いて聞こえた。いまならモヤシと言われようが貧弱と罵られようが言い返すことはできない、とアレンは思ったが、神田はあいかわらずだまっていた。
 いくぶん落ち着きをとりもどした食事の中で、かれはようやくその理由に思いいたる。夜中からずっとひとりだった。あの夢を久しぶりに見て目覚め、この食堂に来るまでひとりでいた。あたまのなかにあの女性の言葉が反響していた。かわいそう、かわいそう。神様を信じることができないなんて。あなたはいったい何をよりどころにしているの?
 しかし寝覚めがわるいのは彼女の言葉のせいではないことも、かれはわかっていた。かれにはその原因がわかっている。かわいそうにと彼女がいう。ちがうと誰かに言ってほしかった。名前を呼びたかった。でも、待ち人は来なかった。"彼″はそこにたどりつかなかったのだ。永遠に。あのときの現実はちがう。けれど、いまは夢のほうが現実だった。あの人はもうずっとアレンのところに戻ってこない。ひとりでむかえる夜明けがひどく遠かった。
「・・今朝、夢見がわるくて早く起きたんです」
 かれは言った。沈黙の中に落ちていくようだったが、やがて目の前の青年は「誰もきいてねえよ」と不機嫌そうにつぶやいた。「貧弱が。ガキかよてめぇは」
 アレンはそのことばに泣きそうだと思ったが、それは情けなさからではなかった。神田はそのまま不機嫌に食事をつづけ、だまってプレートをもつと険悪な雰囲気のまま席を立った。おいモヤシ、と。一ヶ月たった今でも、なぜか約束ははたされない。アレンは顔をあげた。

「てめぇを慰めるなんざ、まっぴらなんだよ。次はラビのところにでも行け」
 王様かなにかのように短い言葉で宣言し、足をふみならして去った。



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05/5/30