ぼくをつかまえてよ




 そうしたらね、たくさん泣くの。と彼女は言った。その白い顔、青ざめたくちびる。不自然なほどに赤黒いまぶた。いいのよ、それで。―そうなのかな、ほんとうに?
「ええ、いいの。お決めになったのよ」
「誰が?」
「神様が」
 わからないな、とアレンは応えた。彼女は悲しそうな微笑みを一瞬深めて、そう、と笑った。それだけだ。
「それはかわいそうに」

 幼いころの記憶を夢に見た。最近ではめったになかったことだ。以前―かれがクロス・マリアン神父と旅を始めたころに、―彼女は何度かかれの夢にあらわれていた。あまり頻繁にその夢がアレンの睡眠をさまたげるので、かれはそれがクロス神父の嫌がらせか呪いではないのかと少し疑っていたくらいだ。神父は手ひどい人間で、かれはそれまでも何度か金槌で気絶をさせられていた。あの神父なら嫌がらせにのろいの一つや二つ・・。
「僕に信仰心がないからですか」
 そんな夢と地獄のエクソシスト特訓が3か月も続いて、もはや精神力だけではどうにもならないと思ったころ、かれは意を決して(しかし恐る恐る)神父に尋ねた。神父は自分だけ昼間からワイングラスを傾けながら、「なんだ馬鹿弟子」と面倒そうに聞き返した。
「言いたいことがあるならわかるように言え」
 言え、といいながらその手にはやはり金槌がにぎられていた。脅迫だ。きっとあれが飛んできたあと、上着のポケットをひっくり返されて中身を根こそぎ取られるに違いない。その月はもうぎりぎりだった。パンを買うにも借金をしているのに、女を買うために金などだせるか。だいたい稼いだのはアレンだ。
 応戦したいのはやまやまだったが、それが無駄だというのは過去30回ほど経験していたからそのときかれはあっさりと引き下がった。
「・・いえなんでも。覚えがないならいいんです」
 背を向ける。僕、つづきをやってきます。部屋を出て行こうとしたのを、神父が「おい」と呼び止めた。おい、おまえこっち来い。アレンはくるりとふりかえり、「何ですか」と師に問うた。いや、正確にはそう言おうとした。かれが神父をその視界にとらえたとき、すでに神父は小型の金槌を手に、人に向けるとは思えないくらい(そもそも金槌は人に向けてはならない)大きく振りかぶったところだった。―ゴガッ。頭の割れる音だ。アレンはあっけなく床にくずれた。そろそろ死ぬかな、と本気で思ったが、かれの記憶はそこでみごとに暗転した。
「そんなものがあるか」
 ふりかえった瞬間に聞いた神父の声は、あの恐怖の淵にあってなぜか鮮明に思い出される。すばらしい記憶力だ。むしろ全部失っても不思議じゃないはずなのに、そんなどうでもいい単語からいちばん忘れたい記憶にいたるまで、かれはしっかり記憶していた。
―信仰など、そんなものがあるか。神父のくせに。
 そしてそのころから夢の頻度は三日に一度になり、週に一度になり、そうしてひと月に一度か二度になっていつしか記憶のかたすみに追いやられた。しかしそれと同じわりあいでかれの眠りは浅くなり、1年がすぎるころには夢もみない浅い眠りで疲労を回復できるようになっていた。神父のことばとは関係なく、かれは単純にタフになっていた。
 義父の夢は一度たりとも見なかった。あれだけの体験をしたのだから、さぞかし恐ろしい悪夢にうなされるだろうと思っていた。しかし、あの穏やかで力強い笑顔に会えることはもう二度となかった。会えたらどんなにかよかっただろうと思うけれど。うなされるような内容でさえ、かれはそれを心待ちにしていた。一度でもよかった。怪物でもアクマでもかれは怖がらずに受け入れることができただろう。今度こそ。それでもマナ・ウォーカーはその身体の一部でさえもかれに見せることをゆるさなかった。

「かわいそうに」
 彼女は言った。弱々しい微笑と消えそうなこえで、しかしなんどでもアレンに向かって。もはやそれが現実だったのか、それともその大半が夢にすりかわって記憶されているのかはかれ自身にもよくわからなかった。それはあまりに遠い記憶で、夢に出てくるその聖堂やステンドグラスにしても、こんなものだったかと思う程度だ。人のいない聖堂。古い長いす。色彩の移りこんだ板床の万華鏡。アレンはそこでひとり待たされている間、その婦人に出会ったのだった。
「大事な人がもうすぐいなくなってしまうの、」
 彼女はアレンに言った。だからこうしてお祈りをするの。
「いなくなってしまわないように?」
「いいえ、やすらかに苦しまずにいかれるように」
「どこへいくの?」
 アレンの問いに彼女は笑みを深くした。悲しげに。アレンはその意味を知っていた。ああ、このひとの大事な人はもうすぐ死んでしまうのだ。幼くして身寄りをなくした孤児にとって、死というものはとても近く、避けがたく、苦痛をともにするのだとかれはもう理解できた。そして残されたものには悲しみがスモッグのようにつきまとう。アレンはかれの大切なひとりの人を思い浮かべた。そしてそのひとのいなかったまだ暗やみの世界を思い出そうとして、そのあまりの大きさと恐ろしさに身震いをする。それはまるで死の世界だった。あのくらいところにもういちど突き落とされるなら、それは死んでしまうのといっしょだ。
 たくさん泣くわ、あの人がいなくなってしまったら。彼女は言った。そしてやすらかに眠っていられるように、泣いたあとはまたがんばって生きなくては。
「ほかにできることはないの?」
「私たちがそのひとたちにできることは、とても少ないのよ」
「・・わからないな」
 アレンは言った。あれほど死を理解していたのに。飢えと暴力と孤独とは、いつでもかれのかたわらにあった。かれは何度も死を覚悟して、いくどかは死にたいとさえ思った。それなのにだ。今かれには死がわからない。おそろしい。だれかが―マナがかれのところへ永遠に戻ることがなくなり、それが決められたことだというのならかれは一生そのひとを、信じることができないだろうとおもった。

 婦人はしばらくのあいだかれを見つめ、そしてしずかに「むずかしいことね」とつぶやいた。彼女はたしかに夫がやすらかに眠れるよう、苦痛を取り除いてくださるようにと願いにきたはずだった。しかしいま傍らにすわる小さなこどもを見ていると、いったいほんとうに願っていたのはそれだったのかと思わずにはいられなかったのだ。彼女は説明のつかない気持ちをかかえながら、自身にさえこの気持ちの真意がわかっていないのに、それを幼い子供に言ってしまったことをすこしだけ悔いた。泣きそうにうつむく小さな命は正直で純粋だった。彼女はそれがうらやましくもあった。けれど、同時にかわいそうだとも。人にはすがるものが必要だ。とても弱くもろい心をささえるものを彼女は信仰のほかに知らなかった。
「かわいそうなこと」
 言いながら、彼女はその子供の煉瓦に似た深い色の赤毛をなでた。そうしながら、それは本当はどちらだろうと思わないではいられなかった。
 ギ、と重く引きずる扉の音に教会の静寂はやぶられた。幼い少年ははじかれたように顔を上げ、まるでもう何年もそこで待ち続けたかのように扉のほうをふりかえった。そしてその人物を目に留めるや、場所も忘れたように駆け出したが、それをとがめる人はだれもいなかった。教会には彼女とかれとその入ってきた人物のほかにひとはなくそれが彼女の夫であったなら、彼女もそうして胸に飛び込んだにちがいない。涙をながして、声の限りに。

「マナ!マナ!」



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05/5/27